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	<title>越智たかおオフィシャルサイト</title>
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	<description>越智たかおオフィシャルサイトです</description>
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		<title>寄稿「今年は、国家ビジョンで競おう」</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Dec 2011 15:00:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ochitakao</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[  ■いま国家ビジョンを創るとき 　いま必要なことは、政治闘争ではなく、多くの人々が賛同できる国家ビジョンを創ることである。この国の再生に残された時間は限られている、次の総選挙は、この国の命運を決める重大な岐路となる。その時までに新たな国家ビジョンを打ちたてて、国民に信を問うことこそ、いまを生きる政治家の責務だと思う。 　昨年11月、ベルルスコーニ氏の後任として新たにイタリアの首相に就任したモンティ氏は、政治家抜きの内閣を組成した。戦後初めて、民選政治家が皆無のテクノクラート内閣である。政治家による合意形成よりも専門家集団による政策形成を優先した結果のように見える。 　日本の場合は、憲法68条で、「国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ぶ」と定められているため、ルール上同様の事態は起きえないが、国民が政治家に辟易としているのは明らかである。「誰がやっても同じ」から「誰がやってもダメ」に。政治家には期待をしない。そんな気配が支配的である。 　いまこそ政治家は、躊躇なく国家ビジョンで競うべきではないか。 　以前は政治家が夢を語った。政治家が国家ビジョンを示した。また、1970年代から1980年代は自民党機関化の時代と呼ばれ、政治が行政と上手に付き合い、一心同体となって国家発展の機関車役を担っていた。 　しかし、日本国家が成長期から成熟期に入り、利益分配型から不利益分配型に政策形成が移行すると、官僚も政治家もなかなか政策形成に責任を持たなくなった。実際、永田町は、国家ビジョンを描くことを諦めているように感じる。理由は恐らく、第一に、全体最適を考えると利害調整が不可能なこと。第二に、率直に解決策が見つからないことだろう。 　したがって、ある一部を捉えた議論に終始してしまうのである。部分最適の積み重ねが必ずしも全体最適には向かうとは限らない。合成の誤謬が生じる。いま正しいと考えられる政策が、あとから振り返ると逆行する政策だったりする。 　永田町も霞が関も、一人一人は一所懸命に働いている。ただ、全体として仕事の生産性は上がっていない。 　財政制約、人口制約、環境制約などさまざまな条件のもとで、国家の経営ならびに国民の生活をいかに成り立たせるか。実現可能で最も意欲的な国家ビジョンを描かなければならない。 ■「縮む日本・膨らむ世界」 　国家ビジョンを考えるとき、考慮すべき重要な点が二つある。一つは、日本の国の規模が相対的に小さくなっていくこと。日本は人口減少で小さくなる一方で、世界はグローバル化で大きくなっていく。いわば、「膨らむ世界の中の縮む日本」を想定することである。 　昨年10月26日のニュースでは、日本の5年ごとの国勢調査で初めて人口減少が確認されたことが報道された一方で、世界人口が10月末日で70億人を超えることが報道された。まさに、「縮む日本と膨らむ世界」だった。 　人口減少は、「第二の人口転換」の現象であり、経済社会が発展した国で多くみられる。ただ日本の場合は、発展が急速であったがゆえに、人口増加が急激で、こらから迎える人口減少も急激である。そして、少子化対策が功を奏して出生率が高位安定しても、安定人口に辿り着く頃には、大幅に人口が減少していることを覚悟しなければならない。 　日本は欧米列強に続いて先進国の仲間入りをしたが、これからは他の多くの国々が仲間入りをする。経済発展が実現すると当面は人口増加の時期を迎え、人口規模ならびに経済規模ともに拡大を辿る。先進国の停滞と新興国の発展が常態化する。 　ピーク時に17％あった日本のGDPシェアはすでに一桁まで低下した。日本は1968年に西側諸国第二位の経済大国となった。以来40余年、経済大国としての自負をもって国際社会と向き合ってきた。ただ、これからの日本の国家ビジョンを考えるとき、日本が相対的に小国化することを大前提としなければならない。 　これは、決して消極的な前提ではない。人口減少は経済社会の発展の帰結であるし、経済シェアの低下は世界経済の発展の帰結である。一言でいえば、人類社会発展の結果である。近現代におけるトップランナーである欧州諸国が、これまで経験してきたことでもある。 　ただ、小国化の前提は、日本の国家モデルに根本的な変更を迫ることになる。福祉国家、加工貿易国家、非軍事国家など、これまで経済大国だからこそ成り立ちえた国のあり方を見直さなければならない。 ■「同質化する世界」 　国家ビジョンを考えるときに考慮すべきもう一つは、世界が同質化することである。 　2007年に発表されたゴールドマンサックス証券の試算によると、ＢＲＩＣｓ諸国を中心に新興国が経済発展を遂げ、2050年には日本は世界第8位の経済規模に転落する。その要因は、一方では新興国の人口規模の拡大であるが、他方では新興国の生産性の向上である。 　グローバル化は、世界あまたの地域への技術移転のプロセスである。究極的には、あまたの国の一人当たり生産性が均等化に向かい、一国の経済規模はその国の人口規模によって決まる時代が訪れるかもしれない。別の言い方をすると、世界中どこに行っても同じような経済生活が営まれることになる。 　そのような世界では、その国のソフトパワーが重要となるのではないか。伝統文化や生活文化など、その国で長年かけて培われてきたもので、一朝一夕では他国に真似できないものである。 　日本を代表する歌舞伎俳優の一人で、海外での文化活動に積極的に取組んでいる市川團十郎丈は、早稲田大学の機関紙でインタビューに答えて次のように述べている。 　「自分たちの文化を誇りに思うことが、真の国際化が向けた第一歩だと思っています。なぜなら、現在、国際化が進むなかで、世界は一つの方向に統一されていく傾向にありますが、そうした時代だからこそ、文化は多様性を保つ必要があると考えるからです。」 　トーマス・フリードマンは、著書「レクサスとオリーブ」の中で、レクサスは物質的向上を、オリーブは個人や共同体のアイデンティティを象徴するものとして描いた。まさに、「レクサス」を追い求める物質社会の中で、「オリーブ」をいかに守るか。最終的には「オリーブ」の大切さを多くの人が理解する日が訪れるのであろう。 月刊カレント2012年1月号掲載（2011年12月13日記）  &#160; &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: left;" align="right"> </p>
<p style="text-align: left;" align="right">■いま国家ビジョンを創るとき</p>
<p>　いま必要なことは、政治闘争ではなく、多くの人々が賛同できる国家ビジョンを創ることである。この国の再生に残された時間は限られている、次の総選挙は、この国の命運を決める重大な岐路となる。その時までに新たな国家ビジョンを打ちたてて、国民に信を問うことこそ、いまを生きる政治家の責務だと思う。</p>
<p>　昨年11月、ベルルスコーニ氏の後任として新たにイタリアの首相に就任したモンティ氏は、政治家抜きの内閣を組成した。戦後初めて、民選政治家が皆無のテクノクラート内閣である。政治家による合意形成よりも専門家集団による政策形成を優先した結果のように見える。</p>
<p>　日本の場合は、憲法68条で、「国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ぶ」と定められているため、ルール上同様の事態は起きえないが、国民が政治家に辟易としているのは明らかである。「誰がやっても同じ」から「誰がやってもダメ」に。政治家には期待をしない。そんな気配が支配的である。</p>
<p>　いまこそ政治家は、躊躇なく国家ビジョンで競うべきではないか。</p>
<p>　以前は政治家が夢を語った。政治家が国家ビジョンを示した。また、1970年代から1980年代は自民党機関化の時代と呼ばれ、政治が行政と上手に付き合い、一心同体となって国家発展の機関車役を担っていた。</p>
<p>　しかし、日本国家が成長期から成熟期に入り、利益分配型から不利益分配型に政策形成が移行すると、官僚も政治家もなかなか政策形成に責任を持たなくなった。実際、永田町は、国家ビジョンを描くことを諦めているように感じる。理由は恐らく、第一に、全体最適を考えると利害調整が不可能なこと。第二に、率直に解決策が見つからないことだろう。</p>
<p>　したがって、ある一部を捉えた議論に終始してしまうのである。部分最適の積み重ねが必ずしも全体最適には向かうとは限らない。合成の誤謬が生じる。いま正しいと考えられる政策が、あとから振り返ると逆行する政策だったりする。</p>
<p>　永田町も霞が関も、一人一人は一所懸命に働いている。ただ、全体として仕事の生産性は上がっていない。</p>
<p>　財政制約、人口制約、環境制約などさまざまな条件のもとで、国家の経営ならびに国民の生活をいかに成り立たせるか。実現可能で最も意欲的な国家ビジョンを描かなければならない。</p>
<p>■「縮む日本・膨らむ世界」</p>
<p>　国家ビジョンを考えるとき、考慮すべき重要な点が二つある。一つは、日本の国の規模が相対的に小さくなっていくこと。日本は人口減少で小さくなる一方で、世界はグローバル化で大きくなっていく。いわば、「膨らむ世界の中の縮む日本」を想定することである。</p>
<p>　昨年10月26日のニュースでは、日本の5年ごとの国勢調査で初めて人口減少が確認されたことが報道された一方で、世界人口が10月末日で70億人を超えることが報道された。まさに、「縮む日本と膨らむ世界」だった。</p>
<p>　人口減少は、「第二の人口転換」の現象であり、経済社会が発展した国で多くみられる。ただ日本の場合は、発展が急速であったがゆえに、人口増加が急激で、こらから迎える人口減少も急激である。そして、少子化対策が功を奏して出生率が高位安定しても、安定人口に辿り着く頃には、大幅に人口が減少していることを覚悟しなければならない。</p>
<p>　日本は欧米列強に続いて先進国の仲間入りをしたが、これからは他の多くの国々が仲間入りをする。経済発展が実現すると当面は人口増加の時期を迎え、人口規模ならびに経済規模ともに拡大を辿る。先進国の停滞と新興国の発展が常態化する。</p>
<p>　ピーク時に17％あった日本のGDPシェアはすでに一桁まで低下した。日本は1968年に西側諸国第二位の経済大国となった。以来40余年、経済大国としての自負をもって国際社会と向き合ってきた。ただ、これからの日本の国家ビジョンを考えるとき、日本が相対的に小国化することを大前提としなければならない。</p>
<p>　これは、決して消極的な前提ではない。人口減少は経済社会の発展の帰結であるし、経済シェアの低下は世界経済の発展の帰結である。一言でいえば、人類社会発展の結果である。近現代におけるトップランナーである欧州諸国が、これまで経験してきたことでもある。</p>
<p>　ただ、小国化の前提は、日本の国家モデルに根本的な変更を迫ることになる。福祉国家、加工貿易国家、非軍事国家など、これまで経済大国だからこそ成り立ちえた国のあり方を見直さなければならない。</p>
<p>■「同質化する世界」</p>
<p>　国家ビジョンを考えるときに考慮すべきもう一つは、世界が同質化することである。</p>
<p>　2007年に発表されたゴールドマンサックス証券の試算によると、ＢＲＩＣｓ諸国を中心に新興国が経済発展を遂げ、2050年には日本は世界第8位の経済規模に転落する。その要因は、一方では新興国の人口規模の拡大であるが、他方では新興国の生産性の向上である。</p>
<p>　グローバル化は、世界あまたの地域への技術移転のプロセスである。究極的には、あまたの国の一人当たり生産性が均等化に向かい、一国の経済規模はその国の人口規模によって決まる時代が訪れるかもしれない。別の言い方をすると、世界中どこに行っても同じような経済生活が営まれることになる。</p>
<p>　そのような世界では、その国のソフトパワーが重要となるのではないか。伝統文化や生活文化など、その国で長年かけて培われてきたもので、一朝一夕では他国に真似できないものである。</p>
<p>　日本を代表する歌舞伎俳優の一人で、海外での文化活動に積極的に取組んでいる市川團十郎丈は、早稲田大学の機関紙でインタビューに答えて次のように述べている。</p>
<p>　「自分たちの文化を誇りに思うことが、真の国際化が向けた第一歩だと思っています。なぜなら、現在、国際化が進むなかで、世界は一つの方向に統一されていく傾向にありますが、そうした時代だからこそ、文化は多様性を保つ必要があると考えるからです。」</p>
<p>　トーマス・フリードマンは、著書「レクサスとオリーブ」の中で、レクサスは物質的向上を、オリーブは個人や共同体のアイデンティティを象徴するものとして描いた。まさに、「レクサス」を追い求める物質社会の中で、「オリーブ」をいかに守るか。最終的には「オリーブ」の大切さを多くの人が理解する日が訪れるのであろう。</p>
<p>月刊カレント2012年1月号掲載（2011年12月13日記） </p>
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		<title>「この国はもっとワクワクできる」たかおマガジン最新版</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Dec 2011 14:59:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ochitakao</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[Takao Magazine 2011_12_14 FINAL]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/Takao-Magazine-2011_12_14-FINAL.pdf">Takao Magazine 2011_12_14 FINAL</a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.03.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-187" title="たかおマガジンp.0" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.03.jpg" alt="" width="527" height="747" /></a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.12.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-186" title="たかおマガジンp.1" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.12.jpg" alt="" width="602" height="851" /></a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.22.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-185" title="たかおマガジンp.2" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.22.jpg" alt="" width="602" height="852" /></a><img title="たかおマガジンp.3" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.31.jpg" alt="" width="602" height="851" /></p>
<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.4.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-182" title="たかおマガジンp.4" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.4.jpg" alt="" width="601" height="851" /></a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.5.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-181" title="たかおマガジンp.5" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.5.jpg" alt="" width="601" height="851" /></a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.6.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-180" title="たかおマガジンp.6" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.6.jpg" alt="" width="602" height="851" /></a><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.7.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-179" title="たかおマガジンp.7" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/12/たかおマガジンp.7.jpg" alt="" width="601" height="849" /></a></p>
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		<title>寄稿「中選挙区制復活で、政治に活力を！」</title>
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		<pubDate>Mon, 31 Oct 2011 15:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ochitakao</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[■政権交代から二年。いよいよ中選挙区制の導入を検討する時機がきた。 　「民意集約」の小選挙区制、「民意反映」の中選挙区制。時代の方向性が定まらない今だからこそ、多様な意見を反映できる中選挙区制導入が必要だと思う。 　それに、ねじれ国会が常態化し、与野党協議が成り立たちにくい状況が続くことで、国政の停滞が問題となっている。定数複数人の中選挙区制に変更することで、与野党連立や連携がスムースになる。 　加えて、政治家の小粒化が嘆かれて久しい。実際に衆議院議員を経験して思うことは、勝率5分5分の選挙が続くと政治家は育たない。2005年に初当選した私の同期は私も含めほとんどが浪人中である。 　中選挙区制は、1947年に小選挙区制導入の過渡的措置として導入された。そして、約半世紀後の1994年に小選挙区制に移行し、その15年後の2009年に政権交代可能な二大政党制が実現した。しかし、いまから振り返れば、実は小選挙区制は2009年をピークに機能不全に陥ったのではないか。小選挙区制の弊害が露呈し、政治システム自体を瓦解させてしまったように思う。民主党が選挙目的で実現不可能な政権公約を掲げた罪は大きいと思う。 　自民党の谷垣総裁は、10月13日の記者会見で、「今の小選挙区を中心とした制度の弊害が表れています。．．．あまりに振幅が激し過ぎますと、なかなか若い政治家も育っていかない」と述べた。いよいよ野党第一党の党首も小選挙区制の弊害を明言した。 　小選挙区制の弊害に対する認識を共有したのであれば、一刻も早く制度改正をした方が良い。選挙制度の歴史を振り返ると、大きな選挙法改正は大きな政策転換と連動することがある。1900年の大選挙区制導入は地租増徴と、1925年の中選挙区制導入は普通選挙制度導入と連動した。 　現在は、人口減少高齢化やグローバル化対応などの国内問題に加え、欧米金融危機が予断を許さない状況となっている。日本の国を着実に一歩ずつ前に進めるために、国民の力を一つにまとめるために、中選挙区制導入を一つの契機にしたい。 ■小選挙区制は一定の成果を上げたが、弊害の方が大きくなった。 　中選挙区制は、1925年に初めて導入されて以来、1993年総選挙まである一時期を除いてほぼ一貫して採用されてきた選挙制度である。 　世界的には中選挙区制を採用している国は珍しいが、日本でこの制度が採用された理由は、1925年当時は、大選挙区制と小選挙区制による特定の勢力の勃興を阻止することであった。大選挙区制では、労働者や農民勢力の政治化の可能性があった。小選挙区制では、政友会などの既成政党の強大化の可能性があった。そこで、普通選挙制度の導入とあわせて、中選挙区制を導入した。 　占領下の1945年に一旦は大選挙区制が導入されるが、1947年には中選挙区制が復活した。直接的な理由は、1946年の大選挙区制選挙で共産党の躍進を許したことであったが、本質的には、二大政党主義に適合した小選挙区制への過渡的方式として中選挙区単記制が構想された。 　その後約半世紀に亘って中選挙区制が運用されてきたが、1980年代後半から1990年代前半にかけて政治改革の必要性が議論され、1994年に小選挙区制が導入された。 　小選挙区制導入に際して、中選挙区制の問題点を踏まえて、いくつかの目的が掲げられた。第一に、「政党本位」。中選挙区制では、同一政党の政治家同士の戦いが生じ、政党間の争点をめぐる選挙戦になりにくかった。第二に、「金権打破」。候補者が政党組織とは別に個人支援組織をつくることなどから選挙に金がかかっていた。第三に、「派閥解消」。政党内に派閥が発生し、派閥間抗争が激化する原因となっていた。 　小選挙区制を導入したことで、政党本位、金権打破、派閥解消などの主要目標について一定の成果を納めた。しかし、その一方で新たな問題が発生した。 　第一に、政党による大規模なバラマキ政策。従来の政治家個人規模のバラマキは少なくなった一方で、政党自体が掲げる政策が財源の裏付けのないバラマキになった。子ども手当に象徴されるように、金額は兆円単位となり、国家の財政運営を左右する規模となってしまった。 　第二に、政治家の質の低下。政党本位が浸透することで、有権者は政治家個人を評価するのでなく、政党を評価対象とするため、結果として政治家個人が切磋琢磨する機会が減り、政治家の質の低下を引き起こしてしまった。 　第三に、首相候補の質の低下。かつての自民党の派閥間競争は党内における政権交代であり、その中でリーダーシップが磨かれていった。派閥機能が低下する中で、政治家グループのリーダーとして、国家行政機関のトップとしての準備をする機会が少なくなった。 　第四に、ねじれ国会の常態化。二大政党化で対立構図が固定化したうえに、2004年から進展した参議院の二大政党化により、衆参ねじれ国会は2007年以降常態化した。このままでは今後も、政権交代の度にねじれ国会を経験することになる。小選挙区制導入を検討している段階では、想定していなかった事態の発生である。 　政党本位の政治システムにおいて、本来であれば政党がこれらの問題を解消しなければならない。ただし、政治実態はそれほど容易ではなく、政党自身が政策づくりの適正化や政治家ならびに首相候補の養成を担うことは十分に可能とは考えられない。 ■定数三人の中選挙区制はどうか。 　いよいよ中選挙区制の導入を検討しなければならない。  　政治学者の北岡伸一東京大学教授は、最近、定数三人の中選挙区制を提唱している。自民党派閥の変容から派閥政治への回帰はない、無責任で非現実的な政策を掲げる政党もごく少数であるとことから、従来指摘されていた中選挙区制導入の弊害は限定的と考えられる。そして、定数を三人とすることで、政党間の競争は残しつつ、圧倒的多数党の出現を抑え、また、極端な政策の人は当選しにくい制度としている。 　それに加えて、中選挙区制の導入は、少数意見を反映しやすい仕組みとなる。例えば、都市住民の意見や若者の意見が政党内で取り上げられる様になったり、新しい政治グループができるかもしれない。中選挙区制は政治にダイナミズムを取戻す切り札になる可能性を持っている。 月刊カレント2011年11月号掲載 （10月17日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: left;" align="center"><strong><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/11/20111101カレント２4.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-128" title="20111101カレント２" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/11/20111101カレント２4.jpg" alt="" width="614" height="307" /></a></strong></p>
<p style="text-align: left;" align="center"><strong>■政権交代から二年。いよいよ中選挙区制の導入を検討する時機がきた。</strong></p>
<p>　「民意集約」の小選挙区制、「民意反映」の中選挙区制。時代の方向性が定まらない今だからこそ、多様な意見を反映できる中選挙区制導入が必要だと思う。</p>
<p>　それに、ねじれ国会が常態化し、与野党協議が成り立たちにくい状況が続くことで、国政の停滞が問題となっている。定数複数人の中選挙区制に変更することで、与野党連立や連携がスムースになる。</p>
<p>　加えて、政治家の小粒化が嘆かれて久しい。実際に衆議院議員を経験して思うことは、勝率5分5分の選挙が続くと政治家は育たない。2005年に初当選した私の同期は私も含めほとんどが浪人中である。</p>
<p>　中選挙区制は、1947年に小選挙区制導入の過渡的措置として導入された。そして、約半世紀後の1994年に小選挙区制に移行し、その15年後の2009年に政権交代可能な二大政党制が実現した。しかし、いまから振り返れば、実は小選挙区制は2009年をピークに機能不全に陥ったのではないか。小選挙区制の弊害が露呈し、政治システム自体を瓦解させてしまったように思う。民主党が選挙目的で実現不可能な政権公約を掲げた罪は大きいと思う。</p>
<p>　自民党の谷垣総裁は、10月13日の記者会見で、「今の小選挙区を中心とした制度の弊害が表れています。．．．あまりに振幅が激し過ぎますと、なかなか若い政治家も育っていかない」と述べた。いよいよ野党第一党の党首も小選挙区制の弊害を明言した。</p>
<p>　小選挙区制の弊害に対する認識を共有したのであれば、一刻も早く制度改正をした方が良い。選挙制度の歴史を振り返ると、大きな選挙法改正は大きな政策転換と連動することがある。1900年の大選挙区制導入は地租増徴と、1925年の中選挙区制導入は普通選挙制度導入と連動した。</p>
<p>　現在は、人口減少高齢化やグローバル化対応などの国内問題に加え、欧米金融危機が予断を許さない状況となっている。日本の国を着実に一歩ずつ前に進めるために、国民の力を一つにまとめるために、中選挙区制導入を一つの契機にしたい。</p>
<p><strong>■小選挙区制は一定の成果を上げたが、弊害の方が大きくなった。</strong></p>
<p>　中選挙区制は、1925年に初めて導入されて以来、1993年総選挙まである一時期を除いてほぼ一貫して採用されてきた選挙制度である。</p>
<p>　世界的には中選挙区制を採用している国は珍しいが、日本でこの制度が採用された理由は、1925年当時は、大選挙区制と小選挙区制による特定の勢力の勃興を阻止することであった。大選挙区制では、労働者や農民勢力の政治化の可能性があった。小選挙区制では、政友会などの既成政党の強大化の可能性があった。そこで、普通選挙制度の導入とあわせて、中選挙区制を導入した。</p>
<p>　占領下の1945年に一旦は大選挙区制が導入されるが、1947年には中選挙区制が復活した。直接的な理由は、1946年の大選挙区制選挙で共産党の躍進を許したことであったが、本質的には、二大政党主義に適合した小選挙区制への過渡的方式として中選挙区単記制が構想された。</p>
<p>　その後約半世紀に亘って中選挙区制が運用されてきたが、1980年代後半から1990年代前半にかけて政治改革の必要性が議論され、1994年に小選挙区制が導入された。</p>
<p>　小選挙区制導入に際して、中選挙区制の問題点を踏まえて、いくつかの目的が掲げられた。第一に、「政党本位」。中選挙区制では、同一政党の政治家同士の戦いが生じ、政党間の争点をめぐる選挙戦になりにくかった。第二に、「金権打破」。候補者が政党組織とは別に個人支援組織をつくることなどから選挙に金がかかっていた。第三に、「派閥解消」。政党内に派閥が発生し、派閥間抗争が激化する原因となっていた。</p>
<p>　小選挙区制を導入したことで、政党本位、金権打破、派閥解消などの主要目標について一定の成果を納めた。しかし、その一方で新たな問題が発生した。</p>
<p>　第一に、政党による大規模なバラマキ政策。従来の政治家個人規模のバラマキは少なくなった一方で、政党自体が掲げる政策が財源の裏付けのないバラマキになった。子ども手当に象徴されるように、金額は兆円単位となり、国家の財政運営を左右する規模となってしまった。</p>
<p>　第二に、政治家の質の低下。政党本位が浸透することで、有権者は政治家個人を評価するのでなく、政党を評価対象とするため、結果として政治家個人が切磋琢磨する機会が減り、政治家の質の低下を引き起こしてしまった。</p>
<p>　第三に、首相候補の質の低下。かつての自民党の派閥間競争は党内における政権交代であり、その中でリーダーシップが磨かれていった。派閥機能が低下する中で、政治家グループのリーダーとして、国家行政機関のトップとしての準備をする機会が少なくなった。</p>
<p>　第四に、ねじれ国会の常態化。二大政党化で対立構図が固定化したうえに、2004年から進展した参議院の二大政党化により、衆参ねじれ国会は2007年以降常態化した。このままでは今後も、政権交代の度にねじれ国会を経験することになる。小選挙区制導入を検討している段階では、想定していなかった事態の発生である。</p>
<p>　政党本位の政治システムにおいて、本来であれば政党がこれらの問題を解消しなければならない。ただし、政治実態はそれほど容易ではなく、政党自身が政策づくりの適正化や政治家ならびに首相候補の養成を担うことは十分に可能とは考えられない。</p>
<p><strong>■定数三人の中選挙区制はどうか。</strong></p>
<p>　いよいよ中選挙区制の導入を検討しなければならない。</p>
<p> 　政治学者の北岡伸一東京大学教授は、最近、定数三人の中選挙区制を提唱している。自民党派閥の変容から派閥政治への回帰はない、無責任で非現実的な政策を掲げる政党もごく少数であるとことから、従来指摘されていた中選挙区制導入の弊害は限定的と考えられる。そして、定数を三人とすることで、政党間の競争は残しつつ、圧倒的多数党の出現を抑え、また、極端な政策の人は当選しにくい制度としている。</p>
<p>　それに加えて、中選挙区制の導入は、少数意見を反映しやすい仕組みとなる。例えば、都市住民の意見や若者の意見が政党内で取り上げられる様になったり、新しい政治グループができるかもしれない。中選挙区制は政治にダイナミズムを取戻す切り札になる可能性を持っている。</p>
<p>月刊カレント2011年11月号掲載<br />
（10月17日記）</p>
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		<title>おちたかおと国会に行こう！2011秋　日程決定！</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/10/65/</link>
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		<pubDate>Thu, 06 Oct 2011 06:52:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[たかおのブログ]]></category>
		<category><![CDATA[勉強会]]></category>
		<category><![CDATA[活動・行事予定]]></category>

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		<description><![CDATA[親子で、友人と、一人で　参加する国会議事堂見学ツアー 第２３回「おちたかおと国会に行こう！」 秋の週末、親子で一緒にでかけよう！ 小学生以来の国会見学が楽しみ！ &#8230; もちろん、大人だけの参加もＯＫです 国会近くのホールで『勉強会』を実施したのち、 『国会見学』に行く企画です 大変好評で、これまで３年間で約１１００名の参加がありました 【日　時】平成２３年１０月２９日（土）１０：００～１２：３０頃 【日　程】 ０９：４５　永田町集合 １０：００　「小中学生のための政治講座」 「国会議事堂について」 １１：００　国会議事堂へ移動 １１：３０　国会議事堂内見学・記念撮影 １２：３０　自由解散 【説明者】越智たかお政策研究会代表　越智隆雄　前衆議院議員 【参加費】大人　１，０００円　子供　５００円 【申込み】次の事項を下記事務局までご連絡ください ①代表者氏名 ②人数　大人（　人）子供（　人）／合計（　人） ③ご住所 ④電話 ⑤ＦＡＸ ⑥Ｅメール 【事務局】越智たかお政策研究会　事務局 tel:03-3413-4600 fax:03-3413-4601 e-mail:info@ochi-takao.jp ※お申込みいただきました方には、後日、詳細をご連絡いたします。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/test1.jpg"><img class="aligncenter size-large wp-image-5" title="test" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/test1-1024x768.jpg" alt="" width="620" height="465" /></a></p>
<p>親子で、友人と、一人で　参加する国会議事堂見学ツアー<br />
第２３回「おちたかおと国会に行こう！」</p>
<p>秋の週末、親子で一緒にでかけよう！<br />
小学生以来の国会見学が楽しみ！<br />
&#8230; もちろん、大人だけの参加もＯＫです</p>
<p>国会近くのホールで『勉強会』を実施したのち、<br />
『国会見学』に行く企画です<br />
大変好評で、これまで３年間で約１１００名の参加がありました</p>
<p>【日　時】平成２３年１０月２９日（土）１０：００～１２：３０頃</p>
<p>【日　程】<br />
０９：４５　永田町集合<br />
１０：００　「小中学生のための政治講座」<br />
「国会議事堂について」<br />
１１：００　国会議事堂へ移動<br />
１１：３０　国会議事堂内見学・記念撮影<br />
１２：３０　自由解散<br />
【説明者】越智たかお政策研究会代表　越智隆雄　前衆議院議員<br />
【参加費】大人　１，０００円　子供　５００円<br />
【申込み】次の事項を下記事務局までご連絡ください<br />
①代表者氏名<br />
②人数　大人（　人）子供（　人）／合計（　人）<br />
③ご住所<br />
④電話<br />
⑤ＦＡＸ<br />
⑥Ｅメール<br />
【事務局】越智たかお政策研究会　事務局<br />
tel:03-3413-4600 fax:03-3413-4601<br />
e-mail:info@ochi-takao.jp</p>
<p>※お申込みいただきました方には、後日、詳細をご連絡いたします。</p>
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		<title>寄稿「失われた20年からの脱却」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/09/21/</link>
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		<pubDate>Wed, 31 Aug 2011 15:00:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[◆民主党政権の2年 　政権交代から2年が経った。民主党政権の2年間は「失われた2年」だった。バブル崩壊から今までの「失われた20年」の最後のダメ押しのような2年だった。 　私は2年前、前回の総選挙を戦った実感を総括し本誌で次の様に記した。「私たち国民は、『政権選択』ではなく『政権拒絶』」をしたと。国民は積極的に民主党政権を望んだわけでなく、自民党政権を積極的に「拒絶」し、結果として民主党政権が「選択」されたと。 　その後2年間、民主党政権はどうだっただろうか。政権交代に多くの国民は熱狂した。初めての本格的非自民党政権の成立だし、政治改革から15年たって政権交代可能な二大政党制が実現したわけだから無理もない。これからは二大政党がそれぞれのリーダー候補とマニフェストを掲げて総選挙を戦い、国民が直接に首相と政策を決定できる世の中になると思われたからである。 　しかし、現実は期待に反する厳しいものだった。鳩山首相も菅首相も政権公約の撤回や変更に追われた。普天間基地移設撤回、消費税増税明言、そして子ども手当撤回など。元々マニフェストが実現不可能な内容だったからである。さらに両首相ともに重大な政治とカネの問題が浮上した。母親からの巨額献金と外国人献金問題である。 　政権交代が実現したことで、政権が変わり政治が変わり社会が変わり生活が変わり、そして日本が変わるという期待感が高まっていただけに、国民が選んだリーダーとマニフェストがともに期待外れで不誠実であったことで、政治不信は高まった。自民党もダメ、民主党もダメ、どうすればよいのかというのが国民の率直な気持ちだろう。 ◆「失われた20年」 　それではこれまでの「失われた20年」とは何だったのか。1990年のバブル崩壊から、1997年のアジア通貨危機、1990年代後半の相次ぐ金融機関の破たんなど、日本は断続的に経済危機に見舞われた。累次の経済危機対策を打つが、景気回復はままならなかった。そしてまず「失われた10年」と言われた。 　2000年代になると、小泉構造改革により復活の可能性が見えた。実際、戦後史上最長の景気拡大を実現した。小泉政権終盤の2006年には、2011年の財政健全化の目途が立ち、実際には計画を上回るペースで財政は改善した。ところが2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災によって、シナリオが崩れた。 　政治については、1990年代になって金権政治批判が激しくなるなか、1993年にはついに自民党が結党以来初めて下野した。しかし非自民党政権は1年足らずで崩壊し、再び自民党が政権を奪取した。政策新人類の登場など変化の兆候は見えたが、自民党の体質は根本的には変わらなかった。 　2000年代は政治は激動した。2001年小泉政権誕生、2005年郵政民営化総選挙、2009年政権交代総選挙。小泉氏が自民党をぶっ壊し、鳩山氏が政権交代を実現した。日本の政治はようやく変わったように見えた。政権交代可能な二大政党制時代の到来である。 　しかし、民主党政権は16年前と同様の過ちを犯したようにみえる。日米関係の再定義、財務省主導の突然の増税発表など非現実的な政策を推し進めようとして民意を失った。結局、政治は変わらなかった。 　それに、今回の民主党の代表選は、日本の政治は変わっていないという強烈な印象を与えた。代表候補が小沢詣でを繰り返すさまを見て、石破茂氏が「20年前に見た光景だ」と言ったように、いまだ政策議論より「数」の論理を重んじる古い政治が続いていることを露わにした。 　加えて、任期途中の民主党代表選挙では、党員投票は行われない。2日か3日の選挙戦で民主党所属国会議員だけで事実上日本国首相が決定される。これでは政治の改革進化はすすまない。まさに首相のたらい回しである。 ◆脱・首相一年交代 　小泉首相から数えると6年で7人目の首相就任となる。日本の政治の不安定性に対する懸念が高まっている。短期政権のあまり、年単位でなく月単位で成果の上がる政策ばかりに重点が置かれているとも言われる。ただ、首相が一年で交代するには原因がある。現在の政治の仕組みや慣行が政権交代時代に合っていないからであり、改善できる可能性は十分にある。 　衆院選が約3年毎、参院選が3年毎、党首選が自民党では3年毎、民主党では2年毎に実施される。したがって、日本の首相はほぼ毎年の様に首相職を継続できるかどうかの岐路に立たされる。この問題の解決には、衆参ねじれ国会が生じる政治制度の問題、ならびに、総選挙より党首選を尊重する首相選びの慣行の問題を解決しなければならない。 　衆参ねじれ国会については、1994年の政治改革では想定されていなかった。しかし実際には参議院の二大政党化が進み、2007年7月の参院選で民主党が勝利するとねじれ国会が生じた。現在では両党ともに攻守それぞれねじれ国会を経験したのだから、国会運営正常化のためにまず実務的に双方でねじれ解消のルール作りを進め、いずれ憲法改正を含めて衆議院の優越を担保する制度改正を実施しなければならない。 　党首選については、いまだ自民党一党優位時代の慣行を引きずっている。小泉首相は3選を禁止した自民党のルールに則って首相任期途中の2006年9月に退任した。昨年9月の民主党党首選で小沢氏が菅氏に勝利していたら首相は交代していた。現行の政党のルールや慣行に従うと、日本国の首相を選ぶ上で、国民参加の総選挙より党員参加あるいは党所属国会議員だけによる党首選の方が尊重されることになる。政党の決断でこの問題は解決できる。 ◆3度目の「10年」回避を 　より難しい課題は、日本再生のための実現可能なマニフェストを描くことである。民主党は政権獲得のため実現「不」可能なマニフェストを掲げた。政治を弄ぶ詐欺集団と言われても仕方がない。本来、国民に真実を語り、その上で最善の政策を提示しなければならない。 　日本は成長国家から成熟国家への脱皮のプロセスにいる。経済は高度成長から安定成長、そして低成長へ。人口は人口爆発から高齢化、さらに人口減少へ。どこの国も経験する成熟プロセスであるが、日本の場合は成長のスピードが早かった分、成熟も早く政策対応もスピードが求められる。それに先例のない人類未体験の世界でもある。 　日本は、成熟国家への脱皮を実現するための知恵を創出できない限り、3度目の「失われた10年」を迎えることになる。なぜなら日本が抱えている問題は、一時的な問題ではなく構造的問題だからである。「失われた20年」の本質は、バブル崩壊後の経済危機対応を重視するあまり、構造的問題に対処することを怠ったことであろう。いま震災対応は早急に進めなければならない。ただ、それを理由に長期的な課題を疎かにしてはならない。政治がこれ以上時間を浪費する余裕はない。 月刊カレント2011年9月号掲載 （8月22日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic007.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-27" title="pic007" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic007.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>◆民主党政権の2年</p>
<p>　政権交代から2年が経った。民主党政権の2年間は「失われた2年」だった。バブル崩壊から今までの「失われた20年」の最後のダメ押しのような2年だった。</p>
<p>　私は2年前、前回の総選挙を戦った実感を総括し本誌で次の様に記した。「私たち国民は、『政権選択』ではなく『政権拒絶』」をしたと。国民は積極的に民主党政権を望んだわけでなく、自民党政権を積極的に「拒絶」し、結果として民主党政権が「選択」されたと。</p>
<p>　その後2年間、民主党政権はどうだっただろうか。政権交代に多くの国民は熱狂した。初めての本格的非自民党政権の成立だし、政治改革から15年たって政権交代可能な二大政党制が実現したわけだから無理もない。これからは二大政党がそれぞれのリーダー候補とマニフェストを掲げて総選挙を戦い、国民が直接に首相と政策を決定できる世の中になると思われたからである。</p>
<p>　しかし、現実は期待に反する厳しいものだった。鳩山首相も菅首相も政権公約の撤回や変更に追われた。普天間基地移設撤回、消費税増税明言、そして子ども手当撤回など。元々マニフェストが実現不可能な内容だったからである。さらに両首相ともに重大な政治とカネの問題が浮上した。母親からの巨額献金と外国人献金問題である。</p>
<p>　政権交代が実現したことで、政権が変わり政治が変わり社会が変わり生活が変わり、そして日本が変わるという期待感が高まっていただけに、国民が選んだリーダーとマニフェストがともに期待外れで不誠実であったことで、政治不信は高まった。自民党もダメ、民主党もダメ、どうすればよいのかというのが国民の率直な気持ちだろう。</p>
<p>◆「失われた20年」</p>
<p>　それではこれまでの「失われた20年」とは何だったのか。1990年のバブル崩壊から、1997年のアジア通貨危機、1990年代後半の相次ぐ金融機関の破たんなど、日本は断続的に経済危機に見舞われた。累次の経済危機対策を打つが、景気回復はままならなかった。そしてまず「失われた10年」と言われた。</p>
<p>　2000年代になると、小泉構造改革により復活の可能性が見えた。実際、戦後史上最長の景気拡大を実現した。小泉政権終盤の2006年には、2011年の財政健全化の目途が立ち、実際には計画を上回るペースで財政は改善した。ところが2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災によって、シナリオが崩れた。</p>
<p>　政治については、1990年代になって金権政治批判が激しくなるなか、1993年にはついに自民党が結党以来初めて下野した。しかし非自民党政権は1年足らずで崩壊し、再び自民党が政権を奪取した。政策新人類の登場など変化の兆候は見えたが、自民党の体質は根本的には変わらなかった。</p>
<p>　2000年代は政治は激動した。2001年小泉政権誕生、2005年郵政民営化総選挙、2009年政権交代総選挙。小泉氏が自民党をぶっ壊し、鳩山氏が政権交代を実現した。日本の政治はようやく変わったように見えた。政権交代可能な二大政党制時代の到来である。</p>
<p>　しかし、民主党政権は16年前と同様の過ちを犯したようにみえる。日米関係の再定義、財務省主導の突然の増税発表など非現実的な政策を推し進めようとして民意を失った。結局、政治は変わらなかった。</p>
<p>　それに、今回の民主党の代表選は、日本の政治は変わっていないという強烈な印象を与えた。代表候補が小沢詣でを繰り返すさまを見て、石破茂氏が「20年前に見た光景だ」と言ったように、いまだ政策議論より「数」の論理を重んじる古い政治が続いていることを露わにした。</p>
<p>　加えて、任期途中の民主党代表選挙では、党員投票は行われない。2日か3日の選挙戦で民主党所属国会議員だけで事実上日本国首相が決定される。これでは政治の改革進化はすすまない。まさに首相のたらい回しである。</p>
<p>◆脱・首相一年交代</p>
<p>　小泉首相から数えると6年で7人目の首相就任となる。日本の政治の不安定性に対する懸念が高まっている。短期政権のあまり、年単位でなく月単位で成果の上がる政策ばかりに重点が置かれているとも言われる。ただ、首相が一年で交代するには原因がある。現在の政治の仕組みや慣行が政権交代時代に合っていないからであり、改善できる可能性は十分にある。</p>
<p>　衆院選が約3年毎、参院選が3年毎、党首選が自民党では3年毎、民主党では2年毎に実施される。したがって、日本の首相はほぼ毎年の様に首相職を継続できるかどうかの岐路に立たされる。この問題の解決には、衆参ねじれ国会が生じる政治制度の問題、ならびに、総選挙より党首選を尊重する首相選びの慣行の問題を解決しなければならない。</p>
<p>　衆参ねじれ国会については、1994年の政治改革では想定されていなかった。しかし実際には参議院の二大政党化が進み、2007年7月の参院選で民主党が勝利するとねじれ国会が生じた。現在では両党ともに攻守それぞれねじれ国会を経験したのだから、国会運営正常化のためにまず実務的に双方でねじれ解消のルール作りを進め、いずれ憲法改正を含めて衆議院の優越を担保する制度改正を実施しなければならない。</p>
<p>　党首選については、いまだ自民党一党優位時代の慣行を引きずっている。小泉首相は3選を禁止した自民党のルールに則って首相任期途中の2006年9月に退任した。昨年9月の民主党党首選で小沢氏が菅氏に勝利していたら首相は交代していた。現行の政党のルールや慣行に従うと、日本国の首相を選ぶ上で、国民参加の総選挙より党員参加あるいは党所属国会議員だけによる党首選の方が尊重されることになる。政党の決断でこの問題は解決できる。</p>
<p>◆3度目の「10年」回避を</p>
<p>　より難しい課題は、日本再生のための実現可能なマニフェストを描くことである。民主党は政権獲得のため実現「不」可能なマニフェストを掲げた。政治を弄ぶ詐欺集団と言われても仕方がない。本来、国民に真実を語り、その上で最善の政策を提示しなければならない。</p>
<p>　日本は成長国家から成熟国家への脱皮のプロセスにいる。経済は高度成長から安定成長、そして低成長へ。人口は人口爆発から高齢化、さらに人口減少へ。どこの国も経験する成熟プロセスであるが、日本の場合は成長のスピードが早かった分、成熟も早く政策対応もスピードが求められる。それに先例のない人類未体験の世界でもある。</p>
<p>　日本は、成熟国家への脱皮を実現するための知恵を創出できない限り、3度目の「失われた10年」を迎えることになる。なぜなら日本が抱えている問題は、一時的な問題ではなく構造的問題だからである。「失われた20年」の本質は、バブル崩壊後の経済危機対応を重視するあまり、構造的問題に対処することを怠ったことであろう。いま震災対応は早急に進めなければならない。ただ、それを理由に長期的な課題を疎かにしてはならない。政治がこれ以上時間を浪費する余裕はない。</p>
<p>月刊カレント2011年9月号掲載<br />
（8月22日記）</p>
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		<title>講演「人口減少時代の国家グランドデザイン」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/08/31/</link>
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		<pubDate>Sat, 06 Aug 2011 12:50:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[たかおのブログ]]></category>
		<category><![CDATA[講演活動]]></category>

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		<description><![CDATA[日　時：平成２３年８月６日（土）１４：００～１７：００ 主　宰：政策マーケティング研究会　 テーマ：「人口減少時代の国家グランドデザイン」 ★政策マーケティング研究会は、20代から40代のビジネスパーソン中心の勉強会。マーケティング会社、シンクタンク、商社、生保勤務、行政書士、病院長など第一線で活躍している方々約20名が参加。その第一回勉強会で講演させていただきました。土曜日の午後2時からの勉強会に続いて、居酒屋に場所を移して夜まで議論は続きました。私にとっても良いインプットを沢山頂きました。 ＜講師自己紹介＞ 元々は住友銀行および大和証券SMBCの金融マンであり、DNAはビジネスパーソン。NY勤務やフランスのビジネススクール留学など海外を経験。35歳のときに政治家を志し退職し、大学院で近代史を勉強した。衆議院議員を一期4年務め、現在所謂充電中。昨年、日本の未来研究所を立ち上げ、政官財学などの経験を基に、21世紀の国家グランドデザインについて検討を進めるため、勉強会や講演など幅広く活動を行っている。 ＜講演趣旨＞ 人口減少は人類社会発展の一つの到達点である。いま私たちは成熟社会を創り上げるための産みの苦しみのただ中にある。経済発展の結果として、人口減少、高齢化、無縁社会化、経済縮小、財政危機などの課題が顕在化する必然性について明らかにするとともに、政治史や人口学の観点の分析も加え、人口減少時代における国家経営や国民生活のあり方について考える。 ＜講演要旨＞ １．人口減少の捉え方 　日本の人口は過去100年で3倍に、将来100年で3分の1になる。その背景には多産多死→多産少死→少産少死→人口減少に至る人口転換のメカニズムがある。また、人口減少高齢化が進むと、経済活動が拡大しない一方で社会保障費が嵩むため、国家財政は圧迫される。 　これまでの数十年は、本来は人口減少時代に備えて、社会システムが持続可能となるよう国家グランドデザインを描き直す時期であった。しかしバブル崩壊により時機を逸した。加えて、景気対策などのため公的債務は急増し世界最悪の累積債務国となった。社会保障費は毎年1兆円ペースで増加し歳出抑制が困難な中で、国債発行の許容額もそろそろ限界に達する。 　欧州の先進諸国は人口増減がゆっくりでかつ数十年前から人口転換への備えを始めていた。一方、日本は増減が急激でかつ対応が遅れている。日本の場合、当面は急激な人口減少が不可避であるが、いずれ出生率を人口置換えレベル2.07まで回復することで人口崩壊は避けなければならない。 ２．維新後の日本政治 　戦前と戦後の歴史を観察すると、国の発展・崩壊のパターンが見えてくる。発展期に続く天皇崩御の後にデモクラシーの時代を経て政治不信に陥る。戦前はその後軍部の台頭を許した。現在は二大政党制が実現したのちの政治不信増幅期か。政党政治を立て直せるのか、それとも新たな体制が生まれるのか、瀬戸際である。 　日本社会は一度価値観をセットするとなかなか変えない。戦前は帝国主義世界の中で軍事増強に邁進し、戦後は資本主義世界の中で経済発展に邁進した。いまのまま景気対策や社会保障制度を重視した政策を続けると、財政破綻すなわち経済的敗戦を迎えるのではないか。いかに回避するかが政治の課題だ。 　日本の民主主義は段階的に発展してきた。戦前は天皇主権、戦後は国民主権であったが事実上官僚主導であった。いよいよ真の国民主権を実現するときだ。 ３．日本国家の特徴 　戦後日本は強大な経済力を背景に必要な食糧・資源や資材それに安全保障まで獲得してきたが、今後はグローバル化の中で日本の経済力は相対的低下するので、新たな国のあり方を構想しなければならない。 　2100年に向けて世界中の国々の発展レベルが均一化していくだろう。国の経済規模は人口で決まるようになるが、国の影響力は所謂ソフトパワーで決まるのではないか。日本独自のライフスタイルや文化伝統、国民性を活かした国づくりを進めるとともに、外交力の強化が重要だ。 ４．人口減少時代の国家経営・国民生活 　人口減少・経済縮小を想定して、国家経営のあり方の検討を進めなければならない。社会保障制度の見直し、都市部へ人口集中への対応、シルバーポリティックスへの対応など。そして、時代の転換を進めるために強い政治的リーダーシップが必要となる。現行の議院内閣制をベースに国民が総選挙で首相と政策を直接選べる政治システム、首相公選的議院内閣制を確立することが近道だ。 　また、人口減少高齢化社会では、財政的制約から公助に依存した国民生活は維持できない。したがって自助共助型ライフスタイルを新たに構築しなければならない。そのために家族・親族ネットワークの充実や地域コミュニティーの活性化が重要になる。私たち国民の意識改革や価値観転換も必要になる。 　1900年から2100年にかけて、人口は放物線を描く。そして、経済力は最初の100年は急上昇してその後天井に張り付く、そして、政治は上下動を周期的に繰返す。これからの100年を考えるとき、まずは急激な人口減少を前提としなければならない。その上で課題は、第一に、人口減少高齢化時代に合った社会システムをつくること。第二に、経済力を維持向上させること。第三に、強い政治的リーダーシップを確立することだ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic023.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-32" title="pic023" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic023.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>日　時：平成２３年８月６日（土）１４：００～１７：００<br />
主　宰：政策マーケティング研究会　<br />
テーマ：「人口減少時代の国家グランドデザイン」</p>
<p>★政策マーケティング研究会は、20代から40代のビジネスパーソン中心の勉強会。マーケティング会社、シンクタンク、商社、生保勤務、行政書士、病院長など第一線で活躍している方々約20名が参加。その第一回勉強会で講演させていただきました。土曜日の午後2時からの勉強会に続いて、居酒屋に場所を移して夜まで議論は続きました。私にとっても良いインプットを沢山頂きました。</p>
<p>＜講師自己紹介＞<br />
元々は住友銀行および大和証券SMBCの金融マンであり、DNAはビジネスパーソン。NY勤務やフランスのビジネススクール留学など海外を経験。35歳のときに政治家を志し退職し、大学院で近代史を勉強した。衆議院議員を一期4年務め、現在所謂充電中。昨年、日本の未来研究所を立ち上げ、政官財学などの経験を基に、21世紀の国家グランドデザインについて検討を進めるため、勉強会や講演など幅広く活動を行っている。</p>
<p>＜講演趣旨＞<br />
人口減少は人類社会発展の一つの到達点である。いま私たちは成熟社会を創り上げるための産みの苦しみのただ中にある。経済発展の結果として、人口減少、高齢化、無縁社会化、経済縮小、財政危機などの課題が顕在化する必然性について明らかにするとともに、政治史や人口学の観点の分析も加え、人口減少時代における国家経営や国民生活のあり方について考える。</p>
<p>＜講演要旨＞</p>
<p>１．人口減少の捉え方<br />
　日本の人口は過去100年で3倍に、将来100年で3分の1になる。その背景には多産多死→多産少死→少産少死→人口減少に至る人口転換のメカニズムがある。また、人口減少高齢化が進むと、経済活動が拡大しない一方で社会保障費が嵩むため、国家財政は圧迫される。<br />
　これまでの数十年は、本来は人口減少時代に備えて、社会システムが持続可能となるよう国家グランドデザインを描き直す時期であった。しかしバブル崩壊により時機を逸した。加えて、景気対策などのため公的債務は急増し世界最悪の累積債務国となった。社会保障費は毎年1兆円ペースで増加し歳出抑制が困難な中で、国債発行の許容額もそろそろ限界に達する。<br />
　欧州の先進諸国は人口増減がゆっくりでかつ数十年前から人口転換への備えを始めていた。一方、日本は増減が急激でかつ対応が遅れている。日本の場合、当面は急激な人口減少が不可避であるが、いずれ出生率を人口置換えレベル2.07まで回復することで人口崩壊は避けなければならない。</p>
<p>２．維新後の日本政治<br />
　戦前と戦後の歴史を観察すると、国の発展・崩壊のパターンが見えてくる。発展期に続く天皇崩御の後にデモクラシーの時代を経て政治不信に陥る。戦前はその後軍部の台頭を許した。現在は二大政党制が実現したのちの政治不信増幅期か。政党政治を立て直せるのか、それとも新たな体制が生まれるのか、瀬戸際である。<br />
　日本社会は一度価値観をセットするとなかなか変えない。戦前は帝国主義世界の中で軍事増強に邁進し、戦後は資本主義世界の中で経済発展に邁進した。いまのまま景気対策や社会保障制度を重視した政策を続けると、財政破綻すなわち経済的敗戦を迎えるのではないか。いかに回避するかが政治の課題だ。<br />
　日本の民主主義は段階的に発展してきた。戦前は天皇主権、戦後は国民主権であったが事実上官僚主導であった。いよいよ真の国民主権を実現するときだ。</p>
<p>３．日本国家の特徴<br />
　戦後日本は強大な経済力を背景に必要な食糧・資源や資材それに安全保障まで獲得してきたが、今後はグローバル化の中で日本の経済力は相対的低下するので、新たな国のあり方を構想しなければならない。<br />
　2100年に向けて世界中の国々の発展レベルが均一化していくだろう。国の経済規模は人口で決まるようになるが、国の影響力は所謂ソフトパワーで決まるのではないか。日本独自のライフスタイルや文化伝統、国民性を活かした国づくりを進めるとともに、外交力の強化が重要だ。</p>
<p>４．人口減少時代の国家経営・国民生活<br />
　人口減少・経済縮小を想定して、国家経営のあり方の検討を進めなければならない。社会保障制度の見直し、都市部へ人口集中への対応、シルバーポリティックスへの対応など。そして、時代の転換を進めるために強い政治的リーダーシップが必要となる。現行の議院内閣制をベースに国民が総選挙で首相と政策を直接選べる政治システム、首相公選的議院内閣制を確立することが近道だ。<br />
　また、人口減少高齢化社会では、財政的制約から公助に依存した国民生活は維持できない。したがって自助共助型ライフスタイルを新たに構築しなければならない。そのために家族・親族ネットワークの充実や地域コミュニティーの活性化が重要になる。私たち国民の意識改革や価値観転換も必要になる。</p>
<p>　1900年から2100年にかけて、人口は放物線を描く。そして、経済力は最初の100年は急上昇してその後天井に張り付く、そして、政治は上下動を周期的に繰返す。これからの100年を考えるとき、まずは急激な人口減少を前提としなければならない。その上で課題は、第一に、人口減少高齢化時代に合った社会システムをつくること。第二に、経済力を維持向上させること。第三に、強い政治的リーダーシップを確立することだ。</p>
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		<title>寄稿「首相公選論、四度目の正直」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/08/34/</link>
		<comments>http://ochi-takao.jp/2011/08/34/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 15:00:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[１．強力な政治的リーダーシップの構築に向けて 　菅首相が「居座り」を続けています。内閣支持率は10％台。与野党問わず政権批判を続ける異常な状態が続いています。国難に対応するため強い政治的リーダーシップが求められている状況の中で、政治崩壊は回避しなければなりません。 　いまなすべきことは、第一に、震災対応に集中し一定の目途をつけること。そのために、挙国一致内閣を発足させ、政策と工程表を創り上げ、官僚機構をフルに活用すること。第二は、財政健全化、成長戦略、エネルギー政策など中長期的課題の解決の方向性を示すこと。そして、それを実現するための強力なリーダーシップを構築すること。 　具体的には、これからの半年一年、与野党協力して震災復旧復興を実現していく裏側で、各党が中長期的課題に対処すべく国家グランドデザインを描き、具体的政策パッケージを提示する準備をすることです。そして、日本の２１世紀の国家グランドデザインを賭けた総選挙を実施します。 　政治的リーダーシップには、数の論理とリーダーの個人的資質が重要でした。加えて、世論を味方につけることも重要となりました。しかし短命政権が続く中、長期安定政権を築くのは難しいのではないかとの意見も少なくありません。 　しかし、政治的リーダーシップを構築する上でもう一つ重要な要素があります。それは選挙で示される民意の力です。国民は自ら選んだ首相や政策を尊重します。首相が変わらない限り、政策が変更されない限り、選挙で決まったことを支持します。したがって、次の総選挙までに、長期政権を担える首相候補を選びだし、日本再生に向けた実現可能な中長期の国家ビジョンを描くことが重要です。 ２．これまでの首相公選論 　最近改めて首相公選制が唱えられ始めました。そこで、戦後これまで三度に亘って議論された首相公選論を振り返ってみます。 （１）反・独裁政治の首相公選論 　一度目の首相公選論は、1953年に中曽根康弘氏がハーバード大学夏季国際セミナーでアジア代表として提唱したことに始まったといわれています。小党分立、短命政権続発の政治情勢の中で、ドイツの様な独裁者登場の危険を回避するための方策として唱えられました。しかしその後日本では、政治面では保守・革新それぞれの合同により五十五年体制が構築され、経済面では高度経済成長が実現され、日本の国家システムが戦後の安定軌道に入っていく中で、首相公選制は憲法改正とともに語られなくなりました。 （２）脱・派閥政治の首相公選論 　二度目の首相公選論は、自民党の行き過ぎた派閥政治への不満がリクルート事件などで顕在化し、また、冷戦終焉を受けて憲法改正議論が始まった時期に活発になりました。1989年に結成された新しい保守集団「自由連合」が、クリーンな政治の確立を企図して首相公選制を唱えました。その後の政治改革議論の中で、1993年2月には山崎拓氏を会長に所謂ＹＫＫを含む自民党有志が「首相公選制を考える国会議員の会」を結成しました。しかしその後、政治改革の具体策が政権交代可能な二大政党制を企図した小選挙区制導入で決着したため、首相公選制の議論は深まりませんでした。 （３）脱・密室政治の首相公選論 　三度目の首相公選論は、2000年4月小渕首相退陣に伴い森首相が密室で決定されたとする不満から活発になりました。2000年11月には民間でも「首相公選の会」が結成され機運が高まりました。結局、2001年4月の自民党総裁選はあたかも国民参加の首相公選の様相を呈し、橋本龍太郎氏を破った小泉純一郎氏が大きな熱狂の中で首相に就任しました。小泉首相はそれまで取組んできた首相公選を制度化するため、佐々木毅東大教授を座長に「首相公選制を考える懇談会」を設置し、2002年8月に報告書がまとめられました。しかし皮肉なことに、首相公選制を疑似的に体験し、選ばれた小泉首相が強いリーダーシップを発揮したことで、首相公選制は論じられなくなりました。 　これまで三度の首相公選論の背景には、それぞれに政治改革の目的がありました。ただ、それらの政治改革の目的は、首相公選制とは異なる手段で達成されました。反・独裁政治は五十五年体制によって、脱・派閥政治は小選挙区制導入によって、脱・密室政治は疑似的首相公選制によって達成されました。 ３．首相公選論を日本再生の契機に！ 　これまで見てきたように、日本の政治システムは段階的に進化しました。さらに、2009年総選挙では政権交代が実現し、事実上首相公選が達成されました。しかし、1994年の政治改革で企図された政権交代可能な二大政党制は実現したものの、逆に日本政治は統治能力をなくしてしまいました。 　国民が直接首相を選べる仕組みは出来上がりましたが、選ばれた首相の政権担当能力を事前にチェックする仕組みが用意されていなかったのです。 　民主党政権の問題は、第一に実現不可能な政策を掲げたこと。第二に不適当な人を首相候補としたこと。第三に総選挙で国民が直接選んだ首相と政策を軽々に変更することです。 　鳩山氏は国民に選ばれましたが、菅氏は単に民主党所属国会議員によって選ばれただけです。議院内閣制の首相は大統領制の大統領より強大な権力を付与されると言われますが、菅首相の政権運営は正統性のない権力者による独裁政治の危険性さえ感じさせます。 　それでは四度目の首相公選論の目的は何でしょうか。選ぶ側の政権選択の自由度の確保に加えて、選ばれる側の政権担当能力の向上です。有能で長続きする政権をつくるための首相公選論です。ポイントは、総選挙に向けて各党が首相候補と政権公約をじっくり決めること。そして、総選挙で勝利したリーダーは少なくとも4年間じっくり腰を据えて新しい国づくりに取組むことです。 　加えて、衆参ねじれ国会の問題には対処しなければなりません。2007年に憲法改正国民投票法は成立し改憲手続きは実施可能です。衆議院優越を担保する憲法改正も検討すべきです。 　様々な課題を抱える日本に残された時間はわずかです。政党が党利党略に走らず、政治家が私利私欲や保身に走らず、国家国民と真正面に向き合って、まずは挙国一致し震災復旧復興に臨み、そして各党が国家グランドデザイン策定に精一杯の知恵を絞ることです。 　その上で、総選挙を実施し、国民が直接選んだ日本の未来を、国民が直接選んだリーダーを先頭に、国民総がかりで実現していこうではありませんか。首相公選的議院内閣制の実現を通じて、国家グランドデザインを策定し、強力な政治的リーダーシップを構築することが、日本再生の最も近道であると考えます。 月刊カレント2011年8月号掲載 （7月19日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic005.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-35" title="pic005" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic005.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>１．強力な政治的リーダーシップの構築に向けて</p>
<p>　菅首相が「居座り」を続けています。内閣支持率は10％台。与野党問わず政権批判を続ける異常な状態が続いています。国難に対応するため強い政治的リーダーシップが求められている状況の中で、政治崩壊は回避しなければなりません。</p>
<p>　いまなすべきことは、第一に、震災対応に集中し一定の目途をつけること。そのために、挙国一致内閣を発足させ、政策と工程表を創り上げ、官僚機構をフルに活用すること。第二は、財政健全化、成長戦略、エネルギー政策など中長期的課題の解決の方向性を示すこと。そして、それを実現するための強力なリーダーシップを構築すること。</p>
<p>　具体的には、これからの半年一年、与野党協力して震災復旧復興を実現していく裏側で、各党が中長期的課題に対処すべく国家グランドデザインを描き、具体的政策パッケージを提示する準備をすることです。そして、日本の２１世紀の国家グランドデザインを賭けた総選挙を実施します。</p>
<p>　政治的リーダーシップには、数の論理とリーダーの個人的資質が重要でした。加えて、世論を味方につけることも重要となりました。しかし短命政権が続く中、長期安定政権を築くのは難しいのではないかとの意見も少なくありません。</p>
<p>　しかし、政治的リーダーシップを構築する上でもう一つ重要な要素があります。それは選挙で示される民意の力です。国民は自ら選んだ首相や政策を尊重します。首相が変わらない限り、政策が変更されない限り、選挙で決まったことを支持します。したがって、次の総選挙までに、長期政権を担える首相候補を選びだし、日本再生に向けた実現可能な中長期の国家ビジョンを描くことが重要です。</p>
<p>２．これまでの首相公選論</p>
<p>　最近改めて首相公選制が唱えられ始めました。そこで、戦後これまで三度に亘って議論された首相公選論を振り返ってみます。</p>
<p>（１）反・独裁政治の首相公選論<br />
　一度目の首相公選論は、1953年に中曽根康弘氏がハーバード大学夏季国際セミナーでアジア代表として提唱したことに始まったといわれています。小党分立、短命政権続発の政治情勢の中で、ドイツの様な独裁者登場の危険を回避するための方策として唱えられました。しかしその後日本では、政治面では保守・革新それぞれの合同により五十五年体制が構築され、経済面では高度経済成長が実現され、日本の国家システムが戦後の安定軌道に入っていく中で、首相公選制は憲法改正とともに語られなくなりました。</p>
<p>（２）脱・派閥政治の首相公選論<br />
　二度目の首相公選論は、自民党の行き過ぎた派閥政治への不満がリクルート事件などで顕在化し、また、冷戦終焉を受けて憲法改正議論が始まった時期に活発になりました。1989年に結成された新しい保守集団「自由連合」が、クリーンな政治の確立を企図して首相公選制を唱えました。その後の政治改革議論の中で、1993年2月には山崎拓氏を会長に所謂ＹＫＫを含む自民党有志が「首相公選制を考える国会議員の会」を結成しました。しかしその後、政治改革の具体策が政権交代可能な二大政党制を企図した小選挙区制導入で決着したため、首相公選制の議論は深まりませんでした。</p>
<p>（３）脱・密室政治の首相公選論<br />
　三度目の首相公選論は、2000年4月小渕首相退陣に伴い森首相が密室で決定されたとする不満から活発になりました。2000年11月には民間でも「首相公選の会」が結成され機運が高まりました。結局、2001年4月の自民党総裁選はあたかも国民参加の首相公選の様相を呈し、橋本龍太郎氏を破った小泉純一郎氏が大きな熱狂の中で首相に就任しました。小泉首相はそれまで取組んできた首相公選を制度化するため、佐々木毅東大教授を座長に「首相公選制を考える懇談会」を設置し、2002年8月に報告書がまとめられました。しかし皮肉なことに、首相公選制を疑似的に体験し、選ばれた小泉首相が強いリーダーシップを発揮したことで、首相公選制は論じられなくなりました。</p>
<p>　これまで三度の首相公選論の背景には、それぞれに政治改革の目的がありました。ただ、それらの政治改革の目的は、首相公選制とは異なる手段で達成されました。反・独裁政治は五十五年体制によって、脱・派閥政治は小選挙区制導入によって、脱・密室政治は疑似的首相公選制によって達成されました。</p>
<p>３．首相公選論を日本再生の契機に！</p>
<p>　これまで見てきたように、日本の政治システムは段階的に進化しました。さらに、2009年総選挙では政権交代が実現し、事実上首相公選が達成されました。しかし、1994年の政治改革で企図された政権交代可能な二大政党制は実現したものの、逆に日本政治は統治能力をなくしてしまいました。</p>
<p>　国民が直接首相を選べる仕組みは出来上がりましたが、選ばれた首相の政権担当能力を事前にチェックする仕組みが用意されていなかったのです。</p>
<p>　民主党政権の問題は、第一に実現不可能な政策を掲げたこと。第二に不適当な人を首相候補としたこと。第三に総選挙で国民が直接選んだ首相と政策を軽々に変更することです。</p>
<p>　鳩山氏は国民に選ばれましたが、菅氏は単に民主党所属国会議員によって選ばれただけです。議院内閣制の首相は大統領制の大統領より強大な権力を付与されると言われますが、菅首相の政権運営は正統性のない権力者による独裁政治の危険性さえ感じさせます。</p>
<p>　それでは四度目の首相公選論の目的は何でしょうか。選ぶ側の政権選択の自由度の確保に加えて、選ばれる側の政権担当能力の向上です。有能で長続きする政権をつくるための首相公選論です。ポイントは、総選挙に向けて各党が首相候補と政権公約をじっくり決めること。そして、総選挙で勝利したリーダーは少なくとも4年間じっくり腰を据えて新しい国づくりに取組むことです。</p>
<p>　加えて、衆参ねじれ国会の問題には対処しなければなりません。2007年に憲法改正国民投票法は成立し改憲手続きは実施可能です。衆議院優越を担保する憲法改正も検討すべきです。</p>
<p>　様々な課題を抱える日本に残された時間はわずかです。政党が党利党略に走らず、政治家が私利私欲や保身に走らず、国家国民と真正面に向き合って、まずは挙国一致し震災復旧復興に臨み、そして各党が国家グランドデザイン策定に精一杯の知恵を絞ることです。</p>
<p>　その上で、総選挙を実施し、国民が直接選んだ日本の未来を、国民が直接選んだリーダーを先頭に、国民総がかりで実現していこうではありませんか。首相公選的議院内閣制の実現を通じて、国家グランドデザインを策定し、強力な政治的リーダーシップを構築することが、日本再生の最も近道であると考えます。</p>
<p>月刊カレント2011年8月号掲載<br />
（7月19日記）</p>
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		<title>寄稿「日本の政党政治、勝負の夏 戦前の二大政党制に学ぶ」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/07/43/</link>
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		<pubDate>Thu, 30 Jun 2011 15:00:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[　政党政治に対する不信感が急速に高まっています。政党は党利党略に明け暮れるもの、政治家は保身のみ考えるもの、と国民が感じはじめているように思います。重大な国難に当たって強い政治的リーダーシップが求められるいま、政党政治の崩壊は国家崩壊に繋がりかねません。 　1924年から1932年の戦前の二大政党期を振り返り、いま何をすべきか、考えてみます。 ■戦前の二大政党制 　戦前の二大政党制は、1924年に第二次護憲運動の結果として政党政治が復権し、加藤高明による護憲三派内閣が成立した時点で実現しました。翌1925年に成立した普通選挙法と合わせて、大正デモクラシーの二大目標が達成され、戦前期における日本の政党政治の黄金期が形成されました。 　大正デモクラシーの理論的基礎をなした一人である吉野作造は、桂園時代以来の政友会一党優位体制の打破を目的に二大政党制導入を主張、また、政党や藩閥等の特権階級による支配を排除するため普通選挙制を唱えました。 　政友会と民政党の二大政党は交互に政権を担当し、憲政の常道が実現されました。天皇大権制かつ事実上権力分立型の明治憲法下において、統治制度の実態が最も議院内閣制に接近した時期となりました。 　しかしながら、その政党政治黄金期は間もなく崩壊します。 　第一の原因は、経済情勢の変化です。第一次大戦後の恐慌から世界恐慌まで日本は断続的に恐慌に襲われましたが、政府は効果的な経済対策を打てませんでした。さらに、政党が独占資本と結びついたことから、国民は政府の無策に失望するとともに政党政治に対する不信を募らせていきました。 　第二の原因は、国際環境の変化です。反帝国主義を掲げた中ソ両国が台頭し、東アジアの安全保障に対する脅威となりました。一方日本政府は、幣原外交に象徴されるワシントン体制の下での国際協調主義に徹したため、軍部などは不満を募らせ、一部は、満州における強硬策を独自に画策し、張作霖爆殺事件や柳条湖事件を引き起こしました。 　第三の原因は、政党自身の問題です。大正デモクラシーの二大目標はあくまで制度的な側面においてのみ実現したもので、前述の吉野が目標に掲げた「人民の意思による支配」は実現していませんでした。すなわち、政党は大衆の政治参加による支持基盤の不安定化を恐れ治安維持法を制定し、無産政党を抑圧する仕組みを構築しました。また、政党間競争においては党利党略による非政策的政争に明け暮れ、加えて、統帥権干犯問題など政党自身が政党政治を批判する発言も多発し、民意の反映は重視されませんでした。 　戦前の政党政治は、伊藤博文による藩閥と政党の統合、桂太郎と西園寺公望による桂園時代の藩閥との共存、そして、原敬による政友会一党支配体制の構築と順次発展し、二大政党制まで辿り着きました。しかし、この時期にピークを迎えるとともに一気に問題が露呈し、1932年の五．一五事件を契機に崩壊し、軍国主義に傾いていきました。 　経済および外交に関する重大課題が浮上したことは原因の一部ですが、それ以上に重要なことは、政党政治の理論と現実の乖離だったのではないでしょうか。1890年の国会開設当時において政党による政治支配が想定されていなかったと同様に、二大政党期において政党は政治の大衆の意思による支配を想定できなかったと考えます。 ■現在の二大政党制 　ではいまの二大政党制はどうでしょうか。 　現在の二大政党制は、1994年の政治制度改革による小選挙区導入時から企図されたものでしたが、実現には時間がかかり、結局15年後の2009年に初めて、二大政党による政権交代が実現しました。 　しかしながら、その二大政党制は、早くも機能不全に陥っています。 　第一の原因は、経済財政問題の深刻化です。1990年のバブル崩壊からアジア通貨危機、リーマン・ショックに加えて今回の大震災まで、日本は断続的に経済危機に襲われましたが、政府は効果的な対策が打てませんでした。加えて、巨額の借金が積み上がりました。 　第二の原因は、国際情勢の深刻化です。グローバリゼーションにより中露両国が台頭し、特に中国は経済面で日本のGDPを抜くとともに軍事的でもプレゼンスを高めてきました。 　政権についた民主党は、これらの課題に対して、予算の組み替えや日米関係の見直しなどを模索しますが、いずれも絵に描いた餅で終わってしまいました。 　第三の原因は、政党自身の問題です。元々実現不可能なマニフェスト、パフォーマンスの事業仕分け、そして、東日本大震災に際し、国益より党益を重視する政党幹部の言動。 　これらのことから、国民は政府に失望するとともに既成政党に対する不信を募らせているのではないでしょうか。 　戦後の二大政党制は、1993年自民党下野、1994年小選挙区制導入、2003年民由合併、2005年郵政選挙などを経て、2009年政権交代まで辿り着きました。しかし、その瞬間にピークを迎えるとともに崩壊しつつあるように思います。 　自民党に愛想を尽かし、民主党に期待したのが2009年の政権交代であったとすると、民主党に愛想を尽かし、もう一度自民党に期待すべきか考え始めたのが震災前後までの情勢でした。ただ、この一カ月間、内閣不信任案提出の失敗、大連立構想の迷走、首相退陣宣言の不履行など迷走を続ける国政に、国民は見切りをつけようとしているのではないでしょうか。 ■挙国一致内閣から真のリーダー選出へ 　われわれが抱えている課題は、短期では震災対応、中期では景気対策、長期では財政健全化、そして、超長期では人口減少・経済縮小対応だと考えています。 　重層的に絡み合った複雑な課題に対して、政治は大所高所から判断を重ね、国家国民をリードしていかなければなりません。 　ただ、いま必要なことは、まずは震災対応に集中すること。一日も早く挙国一致内閣を発足させ、政策と工程表を創り上げることだと思います。そして、半年一年の後、解散総選挙を実施し、国民に選ばれた強力なリーダーを選出し、中長期そして超長期の課題に対処すべきと考えます。 　本来であれば、自民党、民主党ともに来年9月の総裁選挙、代表選挙を前倒しで実施すべきです。その上で総選挙を実施し、勝利したリーダーは少なくとも4年間首相に在任し、腰を据えて新しい国づくりに邁進すべきと考えます。 　このままの政治情勢が続いた場合、国民の政治不信は頂点に達し、限界を超えます。政治の混迷が一層深まることは避けなければなりません。日本の政党政治にとって勝負の夏です。 月刊カレント2011年7月号掲載 （6月20日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic002.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-44" title="pic002" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic002.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>　政党政治に対する不信感が急速に高まっています。政党は党利党略に明け暮れるもの、政治家は保身のみ考えるもの、と国民が感じはじめているように思います。重大な国難に当たって強い政治的リーダーシップが求められるいま、政党政治の崩壊は国家崩壊に繋がりかねません。</p>
<p>　1924年から1932年の戦前の二大政党期を振り返り、いま何をすべきか、考えてみます。</p>
<p>■戦前の二大政党制</p>
<p>　戦前の二大政党制は、1924年に第二次護憲運動の結果として政党政治が復権し、加藤高明による護憲三派内閣が成立した時点で実現しました。翌1925年に成立した普通選挙法と合わせて、大正デモクラシーの二大目標が達成され、戦前期における日本の政党政治の黄金期が形成されました。</p>
<p>　大正デモクラシーの理論的基礎をなした一人である吉野作造は、桂園時代以来の政友会一党優位体制の打破を目的に二大政党制導入を主張、また、政党や藩閥等の特権階級による支配を排除するため普通選挙制を唱えました。</p>
<p>　政友会と民政党の二大政党は交互に政権を担当し、憲政の常道が実現されました。天皇大権制かつ事実上権力分立型の明治憲法下において、統治制度の実態が最も議院内閣制に接近した時期となりました。</p>
<p>　しかしながら、その政党政治黄金期は間もなく崩壊します。</p>
<p>　第一の原因は、経済情勢の変化です。第一次大戦後の恐慌から世界恐慌まで日本は断続的に恐慌に襲われましたが、政府は効果的な経済対策を打てませんでした。さらに、政党が独占資本と結びついたことから、国民は政府の無策に失望するとともに政党政治に対する不信を募らせていきました。</p>
<p>　第二の原因は、国際環境の変化です。反帝国主義を掲げた中ソ両国が台頭し、東アジアの安全保障に対する脅威となりました。一方日本政府は、幣原外交に象徴されるワシントン体制の下での国際協調主義に徹したため、軍部などは不満を募らせ、一部は、満州における強硬策を独自に画策し、張作霖爆殺事件や柳条湖事件を引き起こしました。</p>
<p>　第三の原因は、政党自身の問題です。大正デモクラシーの二大目標はあくまで制度的な側面においてのみ実現したもので、前述の吉野が目標に掲げた「人民の意思による支配」は実現していませんでした。すなわち、政党は大衆の政治参加による支持基盤の不安定化を恐れ治安維持法を制定し、無産政党を抑圧する仕組みを構築しました。また、政党間競争においては党利党略による非政策的政争に明け暮れ、加えて、統帥権干犯問題など政党自身が政党政治を批判する発言も多発し、民意の反映は重視されませんでした。</p>
<p>　戦前の政党政治は、伊藤博文による藩閥と政党の統合、桂太郎と西園寺公望による桂園時代の藩閥との共存、そして、原敬による政友会一党支配体制の構築と順次発展し、二大政党制まで辿り着きました。しかし、この時期にピークを迎えるとともに一気に問題が露呈し、1932年の五．一五事件を契機に崩壊し、軍国主義に傾いていきました。</p>
<p>　経済および外交に関する重大課題が浮上したことは原因の一部ですが、それ以上に重要なことは、政党政治の理論と現実の乖離だったのではないでしょうか。1890年の国会開設当時において政党による政治支配が想定されていなかったと同様に、二大政党期において政党は政治の大衆の意思による支配を想定できなかったと考えます。</p>
<p>■現在の二大政党制</p>
<p>　ではいまの二大政党制はどうでしょうか。</p>
<p>　現在の二大政党制は、1994年の政治制度改革による小選挙区導入時から企図されたものでしたが、実現には時間がかかり、結局15年後の2009年に初めて、二大政党による政権交代が実現しました。</p>
<p>　しかしながら、その二大政党制は、早くも機能不全に陥っています。</p>
<p>　第一の原因は、経済財政問題の深刻化です。1990年のバブル崩壊からアジア通貨危機、リーマン・ショックに加えて今回の大震災まで、日本は断続的に経済危機に襲われましたが、政府は効果的な対策が打てませんでした。加えて、巨額の借金が積み上がりました。</p>
<p>　第二の原因は、国際情勢の深刻化です。グローバリゼーションにより中露両国が台頭し、特に中国は経済面で日本のGDPを抜くとともに軍事的でもプレゼンスを高めてきました。</p>
<p>　政権についた民主党は、これらの課題に対して、予算の組み替えや日米関係の見直しなどを模索しますが、いずれも絵に描いた餅で終わってしまいました。</p>
<p>　第三の原因は、政党自身の問題です。元々実現不可能なマニフェスト、パフォーマンスの事業仕分け、そして、東日本大震災に際し、国益より党益を重視する政党幹部の言動。</p>
<p>　これらのことから、国民は政府に失望するとともに既成政党に対する不信を募らせているのではないでしょうか。</p>
<p>　戦後の二大政党制は、1993年自民党下野、1994年小選挙区制導入、2003年民由合併、2005年郵政選挙などを経て、2009年政権交代まで辿り着きました。しかし、その瞬間にピークを迎えるとともに崩壊しつつあるように思います。</p>
<p>　自民党に愛想を尽かし、民主党に期待したのが2009年の政権交代であったとすると、民主党に愛想を尽かし、もう一度自民党に期待すべきか考え始めたのが震災前後までの情勢でした。ただ、この一カ月間、内閣不信任案提出の失敗、大連立構想の迷走、首相退陣宣言の不履行など迷走を続ける国政に、国民は見切りをつけようとしているのではないでしょうか。</p>
<p>■挙国一致内閣から真のリーダー選出へ</p>
<p>　われわれが抱えている課題は、短期では震災対応、中期では景気対策、長期では財政健全化、そして、超長期では人口減少・経済縮小対応だと考えています。</p>
<p>　重層的に絡み合った複雑な課題に対して、政治は大所高所から判断を重ね、国家国民をリードしていかなければなりません。</p>
<p>　ただ、いま必要なことは、まずは震災対応に集中すること。一日も早く挙国一致内閣を発足させ、政策と工程表を創り上げることだと思います。そして、半年一年の後、解散総選挙を実施し、国民に選ばれた強力なリーダーを選出し、中長期そして超長期の課題に対処すべきと考えます。</p>
<p>　本来であれば、自民党、民主党ともに来年9月の総裁選挙、代表選挙を前倒しで実施すべきです。その上で総選挙を実施し、勝利したリーダーは少なくとも4年間首相に在任し、腰を据えて新しい国づくりに邁進すべきと考えます。</p>
<p>　このままの政治情勢が続いた場合、国民の政治不信は頂点に達し、限界を超えます。政治の混迷が一層深まることは避けなければなりません。日本の政党政治にとって勝負の夏です。</p>
<p>月刊カレント2011年7月号掲載<br />
（6月20日記）</p>
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		<title>寄稿「発展著しい中国と向き合う」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/06/47/</link>
		<comments>http://ochi-takao.jp/2011/06/47/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 31 May 2011 15:00:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[　5月4日から7日の4日間、平将明衆議院議員ら同世代の政治家6名で北京を訪れた。このミッションは、2006年、2007年に続いて3回目。中国政府関係者との意見交換が目的だが、今回は温家宝首相の訪日を前に、震災後の風評被害改善に向けて協力要請も行ってきた。 ■「世界第二の経済国」に登場したが… 　要路の人たちとの会話の中から、中国の実情を掴む。中国といかに付き合うか。日本の国づくりをいかに考えるか。 　今回は特に、2008年北京オリンピック、2010年上海万博を越えて、中国政府幹部や知識人の意識にいかなる変化があったか、二大国家イベント前後の変化に注目した。外交部、国防大学、社会科学院、全人代など7つの組織の人たちと、朝から晩まで意見交換に明け暮れた。 　中国は明らかに自信を深めた。 オリンピックと万博を成功裏に終わらせ、その間に発生したリーマン危機後には、世界経済のけん引役にもなり、2010年にはGDPで世界第二位になった。 　日本は、1964年オリンピック、1970年万博、そして、1968年に世界第二位の経済大国となった。中国は、2008年オリンピック、2010年万博、そして、2010年にGDPで日本を抜いた。半世紀弱の時間差で、中国が日本を追いかける、アジアにおける「雁行的発展」と捉えることもできる。 　しかし、中国人の捉え方は違う。中国の台頭ではなく、中国の復権だ。2006年訪中時の武大偉外交部副部長の言葉がいまでも記憶に残っている。「アヘン戦争以降現在まで、中国にとって異常な時期です」と。 　少なくとも19世紀初頭まで、中国は大国であった。アンガス・マディソン（グローニンゲン大学）の過去の経済力推計によると、1820年のGDPシェアは、中国33%、インド16%、日本3%、アメリカ2%、西ヨーロッパ諸国23%であったそうだ。中印両国が経済大国であったのだ。 　19世紀と20世紀は、日本にとっては発展の二世紀であった。中国にとっては不遇の二世紀であったのだろう。日本は、明治維新以後欧米列強と伍し軍事大国の一角をなし、戦後は廃墟から経済大国に上り詰めた。一方、中国は、アヘン戦争以降列強の支配を受けたが、ようやく近年、改革開放政策とそれに続く経済発展で国力増進を図ってきた。 　いよいよ中国人指導層が復権に自信を深めた、と感じとった。 ■「高成長維持」は自信か過信か 　経済発展に対する躊躇はなくなった。 　2007年当時は、第一に、オリンピックあるいは万博後の景気減速の懸念があった。中国版バブル崩壊の可能性も叫ばれた。第二に、経済発展の負の部分が懸念された。第一に格差、第二にインフレ、第三に環境問題、第四に汚職が挙げられた。そして、解決のために胡錦濤主席は、「和諧社会（調和のとれた社会）」とのスローガンで諸政策を展開しようとしていたが、中国人指導層の発言からは、不安が隠しきれなかった。 　ところが、今回は、景気見通しに関して楽観論が相次いだ。経済学者からも、諸問題には政策対応可能で、高成長維持可能との見解があった。国防大学の幹部からは、今後20～30年間、8％程度の成長を見込んでいる、との発言。経済の専門家ではないが、国防予算の前提として考えているようだ。 　中国は経済発展のアクセルを踏み続ける意志を強めているように感じた。著名な現代中国政治研究者の国分良成慶大教授も著書の中で、「成長のパイを増やすことばかりを考え、再分配を重視する“和諧社会建設”は後回しになりそうだ」と述べている。 　ただ、将来を見通すと、厳しい実情も見えてくる。社会科学院の研究者が「日本は豊かになってから高齢化したが、中国は豊かになる前に高齢化する」と発言した。65歳以上の人口割合は現在8%程度だが、長寿化と、一人っ子政策という作為的少子化により、少子高齢化は急速に進む。 　人口構造は経済力に直結する重大な問題である。前述の研究者によると、一人っ子政策の見直しが始まり、一人っ子同士の夫婦には二人目を認めるとのこと。ただ、一朝一夕で変わるのもではない。2015年頃には労働力人口の減少が始まる。 ■「政冷経冷」に踏み込んだ外交　 　格差や汚職などの国内問題が解決困難となり、国民不満が爆発したとき、中国は日本にいかなる態度をとるのか。私たちが大きな関心を持つことである。 　靖国問題で冷え切った日中関係は、2006年秋以降飛躍的に改善した。2006年10月の安倍首相の電撃的訪中から2008年5月の胡錦濤国家主席の訪日、そして、日中平和友好条約締結30周年の日中共同声明発出へ。両国首脳が交互に訪問を積み重ね、漸進的に関係が改善していった。 　ただ、中国の著しい発展にともなって、日中関係は変化した。2010年の尖閣諸島問題では、それまでの「政冷経熱」路線は踏襲されず、レアアース輸出停止、日本企業関係者拘束など、経済活動にも支障をきたした。いわば、「政冷経冷」である。 　リーマン危機後に自信をつけた中国は、2009年半ばから対外姿勢を強化したと考えられている。南シナ海などを核心的利益と呼び、海洋権益の拡大を推進している。また、天安門事件以後、共産党への支持を再強化するため愛国教育がすすめられたが、その中心は反日感情を利用した国家統合を企図したものだった。国防大学の幹部は、日中軍事交流の可能性に関する議論の中で「中国と日本の間には、根本的信頼がない」と語った。 　また、外交官養成学校の教官たちからは「日本は日米同盟を見直さないのか」との質問が相次いだ。民主党政権の日米中正三角形論等に刺激された発想か。中国の自信の表れか。私は、防衛力しか持たない日本の外交の要諦は、最悪を回避するための日米同盟と、最善を齎すためのアジア協調の組み合わせだ、と応じた。 ■「アジア二大国時代」を生きる 　中国は、発展に対する“不安から自信へ”、“躊躇から猛進へ”確実に踏み出した。本格的なアジア二大国時代の到来である。成熟期の日本と、高度成長期の中国。東アジアの隣人として、日本は中国といかに向き合っていくのか。 　今回の訪中で感じ取ったことの一つは、中国が、軍事力増強とナショナリズムに向かう悪循環に対して、今まで以上に関心を持ち、回避させるための努力を惜しんではならないこと。歴史の常として、経済大国は軍事大国を目指すものだ。 　もう一つは、日本再生へのインプリケーションである。重要なことは、第一に、再生への執念を強く持つこと。第二に、強いリーダーシップを確立すること。第三に、強靭な国内体制を構築すること。東日本大震災からの復興とともに、日本再生への大きな槌音を早く響かせなければならない。 『月刊カレント』2011年6月号掲載 （5月16日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic019.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-48" title="pic019" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic019.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>　5月4日から7日の4日間、平将明衆議院議員ら同世代の政治家6名で北京を訪れた。このミッションは、2006年、2007年に続いて3回目。中国政府関係者との意見交換が目的だが、今回は温家宝首相の訪日を前に、震災後の風評被害改善に向けて協力要請も行ってきた。</p>
<p>■「世界第二の経済国」に登場したが…</p>
<p>　要路の人たちとの会話の中から、中国の実情を掴む。中国といかに付き合うか。日本の国づくりをいかに考えるか。</p>
<p>　今回は特に、2008年北京オリンピック、2010年上海万博を越えて、中国政府幹部や知識人の意識にいかなる変化があったか、二大国家イベント前後の変化に注目した。外交部、国防大学、社会科学院、全人代など7つの組織の人たちと、朝から晩まで意見交換に明け暮れた。</p>
<p>　中国は明らかに自信を深めた。</p>
<p>オリンピックと万博を成功裏に終わらせ、その間に発生したリーマン危機後には、世界経済のけん引役にもなり、2010年にはGDPで世界第二位になった。</p>
<p>　日本は、1964年オリンピック、1970年万博、そして、1968年に世界第二位の経済大国となった。中国は、2008年オリンピック、2010年万博、そして、2010年にGDPで日本を抜いた。半世紀弱の時間差で、中国が日本を追いかける、アジアにおける「雁行的発展」と捉えることもできる。</p>
<p>　しかし、中国人の捉え方は違う。中国の台頭ではなく、中国の復権だ。2006年訪中時の武大偉外交部副部長の言葉がいまでも記憶に残っている。「アヘン戦争以降現在まで、中国にとって異常な時期です」と。</p>
<p>　少なくとも19世紀初頭まで、中国は大国であった。アンガス・マディソン（グローニンゲン大学）の過去の経済力推計によると、1820年のGDPシェアは、中国33%、インド16%、日本3%、アメリカ2%、西ヨーロッパ諸国23%であったそうだ。中印両国が経済大国であったのだ。</p>
<p>　19世紀と20世紀は、日本にとっては発展の二世紀であった。中国にとっては不遇の二世紀であったのだろう。日本は、明治維新以後欧米列強と伍し軍事大国の一角をなし、戦後は廃墟から経済大国に上り詰めた。一方、中国は、アヘン戦争以降列強の支配を受けたが、ようやく近年、改革開放政策とそれに続く経済発展で国力増進を図ってきた。</p>
<p>　いよいよ中国人指導層が復権に自信を深めた、と感じとった。</p>
<p>■「高成長維持」は自信か過信か</p>
<p>　経済発展に対する躊躇はなくなった。</p>
<p>　2007年当時は、第一に、オリンピックあるいは万博後の景気減速の懸念があった。中国版バブル崩壊の可能性も叫ばれた。第二に、経済発展の負の部分が懸念された。第一に格差、第二にインフレ、第三に環境問題、第四に汚職が挙げられた。そして、解決のために胡錦濤主席は、「和諧社会（調和のとれた社会）」とのスローガンで諸政策を展開しようとしていたが、中国人指導層の発言からは、不安が隠しきれなかった。</p>
<p>　ところが、今回は、景気見通しに関して楽観論が相次いだ。経済学者からも、諸問題には政策対応可能で、高成長維持可能との見解があった。国防大学の幹部からは、今後20～30年間、8％程度の成長を見込んでいる、との発言。経済の専門家ではないが、国防予算の前提として考えているようだ。</p>
<p>　中国は経済発展のアクセルを踏み続ける意志を強めているように感じた。著名な現代中国政治研究者の国分良成慶大教授も著書の中で、「成長のパイを増やすことばかりを考え、再分配を重視する“和諧社会建設”は後回しになりそうだ」と述べている。</p>
<p>　ただ、将来を見通すと、厳しい実情も見えてくる。社会科学院の研究者が「日本は豊かになってから高齢化したが、中国は豊かになる前に高齢化する」と発言した。65歳以上の人口割合は現在8%程度だが、長寿化と、一人っ子政策という作為的少子化により、少子高齢化は急速に進む。</p>
<p>　人口構造は経済力に直結する重大な問題である。前述の研究者によると、一人っ子政策の見直しが始まり、一人っ子同士の夫婦には二人目を認めるとのこと。ただ、一朝一夕で変わるのもではない。2015年頃には労働力人口の減少が始まる。</p>
<p>■「政冷経冷」に踏み込んだ外交　</p>
<p>　格差や汚職などの国内問題が解決困難となり、国民不満が爆発したとき、中国は日本にいかなる態度をとるのか。私たちが大きな関心を持つことである。</p>
<p>　靖国問題で冷え切った日中関係は、2006年秋以降飛躍的に改善した。2006年10月の安倍首相の電撃的訪中から2008年5月の胡錦濤国家主席の訪日、そして、日中平和友好条約締結30周年の日中共同声明発出へ。両国首脳が交互に訪問を積み重ね、漸進的に関係が改善していった。</p>
<p>　ただ、中国の著しい発展にともなって、日中関係は変化した。2010年の尖閣諸島問題では、それまでの「政冷経熱」路線は踏襲されず、レアアース輸出停止、日本企業関係者拘束など、経済活動にも支障をきたした。いわば、「政冷経冷」である。</p>
<p>　リーマン危機後に自信をつけた中国は、2009年半ばから対外姿勢を強化したと考えられている。南シナ海などを核心的利益と呼び、海洋権益の拡大を推進している。また、天安門事件以後、共産党への支持を再強化するため愛国教育がすすめられたが、その中心は反日感情を利用した国家統合を企図したものだった。国防大学の幹部は、日中軍事交流の可能性に関する議論の中で「中国と日本の間には、根本的信頼がない」と語った。</p>
<p>　また、外交官養成学校の教官たちからは「日本は日米同盟を見直さないのか」との質問が相次いだ。民主党政権の日米中正三角形論等に刺激された発想か。中国の自信の表れか。私は、防衛力しか持たない日本の外交の要諦は、最悪を回避するための日米同盟と、最善を齎すためのアジア協調の組み合わせだ、と応じた。</p>
<p>■「アジア二大国時代」を生きる</p>
<p>　中国は、発展に対する“不安から自信へ”、“躊躇から猛進へ”確実に踏み出した。本格的なアジア二大国時代の到来である。成熟期の日本と、高度成長期の中国。東アジアの隣人として、日本は中国といかに向き合っていくのか。</p>
<p>　今回の訪中で感じ取ったことの一つは、中国が、軍事力増強とナショナリズムに向かう悪循環に対して、今まで以上に関心を持ち、回避させるための努力を惜しんではならないこと。歴史の常として、経済大国は軍事大国を目指すものだ。</p>
<p>　もう一つは、日本再生へのインプリケーションである。重要なことは、第一に、再生への執念を強く持つこと。第二に、強いリーダーシップを確立すること。第三に、強靭な国内体制を構築すること。東日本大震災からの復興とともに、日本再生への大きな槌音を早く響かせなければならない。</p>
<p>『月刊カレント』2011年6月号掲載<br />
（5月16日記）</p>
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		<title>寄稿「大震災を越えて」</title>
		<link>http://ochi-takao.jp/2011/04/50/</link>
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		<pubDate>Thu, 31 Mar 2011 15:00:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[月刊カレント]]></category>

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		<description><![CDATA[　2011年3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0。国内観測史上最大、1900年以降世界4番目の大地震に見舞われた。１万人を超える死亡者・行方不明者、数十万人の被災者、未曽有の大震災となった。 　津波に街がのまれていく映像を目にして、驚愕した。「家族が流された」とのインタビューに、居た堪れない気持ちになった。長い避難所生活によるストレスや健康が心配になった。一方、いつも助け合い、いつも整然と順番を待つ日本人の礼節に満ちた姿に、誇りさえ感じた。 　まず、被害者の皆さんのご冥福を祈り、被災者の皆さんに心からのお見舞いを申し上げたい。 １．「東日本大震災」と向き合う覚悟 　日本は、国内的には「人口減少高齢化」、対外的には「グローバリゼーション」という不可逆的で急激な環境変化に対応していかなければならないことに変わりはない。先月号まで述べてきたように、日本は豊かで長生きを達成した「成熟国家」が容易に陥る「超成熟国家の罠」に嵌っている。人口減少高齢化、経済縮小、財政悪化によって、「衰退国家」への道の入り口に立っている。 　バブル崩壊から20年。いよいよ本腰を入れて国家再建に向けて国民一丸となって取組もうとする矢先の大震災である。 　今回の大震災は、長期的にみた日本社会全体の発展プロセスにおいても、計り知れない影響を及ぼすだろう。バブル崩壊と同様の巨大な調整コストを生じるかもしれない。傷跡を克服するのに、半年一年ではなく、数年から十年単位の時間がかかるのではないか。であるならば、震災からの復活を、日本社会全体の復活の契機にするよう努めてみようではないか。 　今回の地震では、第一に、地震に加え津波の被害が大きく、多数の被害者と被災者が出た。第二に、原発事故により電力供給力確保が当面難しくなった。第三に、電力供給不足から計画停電などが実施され、国民生活全般に大きな影響を及ぼした。第四に、原発事故が深刻化し、放射能漏れ懸念が高まった。第五に、経済活動が抑制され、株安に加え円高も進行し、景気への影響が予想される事態となった。第六に、補正予算や税収落込みなどで財政状況が悪化することが見込まれることとなった。 　「東日本大震災」は、被災地域だけの問題ではない。日本の社会システム全体に影響を及ぼすものであった。被害者・被災者対策、復興策は可及的速やかに実施していかなければならない。ただ、その後、日本全体を軌道に戻す作業も視野に入れておかなければならない。 　少し前のめりの議論になるかもしれないが、「バブル崩壊」の二の舞になってはならないと考えている。1990年からの20年間、私たちは景気対策に終始してきた。その反面、少子高齢化・人口減少といった先進国が抱える課題への対応を怠り、グローバリゼーションへの対応も後手に回った。今回は、復興プロセスにおいて、「人口減少高齢化」ならびに「グローバリゼーション」への対応も併せて考えていかなければならない。もう失える時間はない。 ２．「日本人は冷静」と世界の声 　震災報道の中で、悲惨な現状を伝えられるとともに、特に海外から、日本社会や日本人に対する様々な評価や称賛の声が聞かれるようになった。 　地震2日後の3月13日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「不屈の日本」と題した社説を掲載した。いわく、日本は、地震という自然災害から国民を守るために適切に対応してきた、と。建物の耐震化、緊急地震速報など。 　同じ13日、ロサンゼルス・タイムズ紙は、東日本巨大地震を取材中の特派員電を掲載、「非の打ち所のないマナーは、まったく損なわれていない」という見出しで、巨大な災害に見舞われたにもかかわらず、思いやりを忘れない日本人たちを称賛した。 　3月15日、フランスの通信社ＡＦＰは、「悲劇の中、日本に集まる世界の称賛」と題した記事を配信した。 　AFPの取材に、米ハーバード大学ジョセフ・ナイ教授は、「「悲劇は計り知れないが、日本が持つ非常に魅力的なある面を、この悲しい出来事が明らかにしている。それが日本の『ソフトパワー』を促進する。そうした面が共感を生み出すことに加え、このような災害に対して冷静に秩序正しく反応し、近代国家としてなしうる構えのできた安定した、礼儀正しい社会であることを示している」と答えた。 　米国の戦略国際問題研究所（CSIS）ニコラス・セーチェーニ副所長は、「問題は、経済を革新し、復興を遂げるために必要とされることに、日本が対処できるかどうかだ。予測を立てるには時期尚早だが、遠くから眺めてこれまでのところ、日本人は危機の際の耐性の強さを示していると思う。この点が後日、日本という国をよく物語る点になると思う」と述べた。 　世界は、日本のこれまでの地震対策や日本人の冷静さや助け合いの姿を率直に評価している。私たち日本人としては、自らの姿を改めて見つめ、誇りを取り戻す機会となるのではないか。 ３．大震災の教訓 　地震直後、石原慎太郎都知事が、「天罰発言」をして問題になった。ただ、発言文を読んでみると、「政治も日本人の我欲に縛られたポピュリズムになっている」と述べている。政治家が国民を信じていない、と警鐘を鳴らしたと受け止めた。 　海外メディアの報道を待つまでもなく、被災地に高潔な日本人の姿があった。極限状態であるにもかかわらず、自助自立、相互扶助を規範に立派に対応している姿に感銘さえ受けた。それに加え、「計画停電」に関しても、直前の発表にも関わらず各地で大きな混乱は生じなかった。国道を整然と歩く通勤通学者の列がまぶたに焼き付いている。 　日本人は、危機感を共有したとき、極めて高い規範意識をもって行動する。だとすれば、日本の政治家は、日本人を我欲の塊と見なしバラマキ政策に終始するのでなく、この高潔な日本人をもっと信じなければならない。そして、危機認識を共有し、規範を提示し、実行に移すことにリーダーシップを発揮していかなければならないのである。 　国政では、子ども手当や高速道路無料化などマニフェスト関連予算を削減し、震災対策の財源に充てる議論が行われた。国家的危機の対応の中で、政治家も旧弊から脱却するときではないか。 『月刊カレント』2011年4月号掲載 （3月17日記）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic004.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-51" title="pic004" src="http://ochi-takao.jp/wp-content/uploads/2011/10/pic004.jpg" alt="" width="620" height="250" /></a></p>
<p>　2011年3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0。国内観測史上最大、1900年以降世界4番目の大地震に見舞われた。１万人を超える死亡者・行方不明者、数十万人の被災者、未曽有の大震災となった。</p>
<p>　津波に街がのまれていく映像を目にして、驚愕した。「家族が流された」とのインタビューに、居た堪れない気持ちになった。長い避難所生活によるストレスや健康が心配になった。一方、いつも助け合い、いつも整然と順番を待つ日本人の礼節に満ちた姿に、誇りさえ感じた。</p>
<p>　まず、被害者の皆さんのご冥福を祈り、被災者の皆さんに心からのお見舞いを申し上げたい。</p>
<p>１．「東日本大震災」と向き合う覚悟</p>
<p>　日本は、国内的には「人口減少高齢化」、対外的には「グローバリゼーション」という不可逆的で急激な環境変化に対応していかなければならないことに変わりはない。先月号まで述べてきたように、日本は豊かで長生きを達成した「成熟国家」が容易に陥る「超成熟国家の罠」に嵌っている。人口減少高齢化、経済縮小、財政悪化によって、「衰退国家」への道の入り口に立っている。</p>
<p>　バブル崩壊から20年。いよいよ本腰を入れて国家再建に向けて国民一丸となって取組もうとする矢先の大震災である。</p>
<p>　今回の大震災は、長期的にみた日本社会全体の発展プロセスにおいても、計り知れない影響を及ぼすだろう。バブル崩壊と同様の巨大な調整コストを生じるかもしれない。傷跡を克服するのに、半年一年ではなく、数年から十年単位の時間がかかるのではないか。であるならば、震災からの復活を、日本社会全体の復活の契機にするよう努めてみようではないか。</p>
<p>　今回の地震では、第一に、地震に加え津波の被害が大きく、多数の被害者と被災者が出た。第二に、原発事故により電力供給力確保が当面難しくなった。第三に、電力供給不足から計画停電などが実施され、国民生活全般に大きな影響を及ぼした。第四に、原発事故が深刻化し、放射能漏れ懸念が高まった。第五に、経済活動が抑制され、株安に加え円高も進行し、景気への影響が予想される事態となった。第六に、補正予算や税収落込みなどで財政状況が悪化することが見込まれることとなった。</p>
<p>　「東日本大震災」は、被災地域だけの問題ではない。日本の社会システム全体に影響を及ぼすものであった。被害者・被災者対策、復興策は可及的速やかに実施していかなければならない。ただ、その後、日本全体を軌道に戻す作業も視野に入れておかなければならない。</p>
<p>　少し前のめりの議論になるかもしれないが、「バブル崩壊」の二の舞になってはならないと考えている。1990年からの20年間、私たちは景気対策に終始してきた。その反面、少子高齢化・人口減少といった先進国が抱える課題への対応を怠り、グローバリゼーションへの対応も後手に回った。今回は、復興プロセスにおいて、「人口減少高齢化」ならびに「グローバリゼーション」への対応も併せて考えていかなければならない。もう失える時間はない。</p>
<p>２．「日本人は冷静」と世界の声</p>
<p>　震災報道の中で、悲惨な現状を伝えられるとともに、特に海外から、日本社会や日本人に対する様々な評価や称賛の声が聞かれるようになった。</p>
<p>　地震2日後の3月13日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「不屈の日本」と題した社説を掲載した。いわく、日本は、地震という自然災害から国民を守るために適切に対応してきた、と。建物の耐震化、緊急地震速報など。</p>
<p>　同じ13日、ロサンゼルス・タイムズ紙は、東日本巨大地震を取材中の特派員電を掲載、「非の打ち所のないマナーは、まったく損なわれていない」という見出しで、巨大な災害に見舞われたにもかかわらず、思いやりを忘れない日本人たちを称賛した。</p>
<p>　3月15日、フランスの通信社ＡＦＰは、「悲劇の中、日本に集まる世界の称賛」と題した記事を配信した。</p>
<p>　AFPの取材に、米ハーバード大学ジョセフ・ナイ教授は、「「悲劇は計り知れないが、日本が持つ非常に魅力的なある面を、この悲しい出来事が明らかにしている。それが日本の『ソフトパワー』を促進する。そうした面が共感を生み出すことに加え、このような災害に対して冷静に秩序正しく反応し、近代国家としてなしうる構えのできた安定した、礼儀正しい社会であることを示している」と答えた。</p>
<p>　米国の戦略国際問題研究所（CSIS）ニコラス・セーチェーニ副所長は、「問題は、経済を革新し、復興を遂げるために必要とされることに、日本が対処できるかどうかだ。予測を立てるには時期尚早だが、遠くから眺めてこれまでのところ、日本人は危機の際の耐性の強さを示していると思う。この点が後日、日本という国をよく物語る点になると思う」と述べた。</p>
<p>　世界は、日本のこれまでの地震対策や日本人の冷静さや助け合いの姿を率直に評価している。私たち日本人としては、自らの姿を改めて見つめ、誇りを取り戻す機会となるのではないか。</p>
<p>３．大震災の教訓</p>
<p>　地震直後、石原慎太郎都知事が、「天罰発言」をして問題になった。ただ、発言文を読んでみると、「政治も日本人の我欲に縛られたポピュリズムになっている」と述べている。政治家が国民を信じていない、と警鐘を鳴らしたと受け止めた。</p>
<p>　海外メディアの報道を待つまでもなく、被災地に高潔な日本人の姿があった。極限状態であるにもかかわらず、自助自立、相互扶助を規範に立派に対応している姿に感銘さえ受けた。それに加え、「計画停電」に関しても、直前の発表にも関わらず各地で大きな混乱は生じなかった。国道を整然と歩く通勤通学者の列がまぶたに焼き付いている。</p>
<p>　日本人は、危機感を共有したとき、極めて高い規範意識をもって行動する。だとすれば、日本の政治家は、日本人を我欲の塊と見なしバラマキ政策に終始するのでなく、この高潔な日本人をもっと信じなければならない。そして、危機認識を共有し、規範を提示し、実行に移すことにリーダーシップを発揮していかなければならないのである。</p>
<p>　国政では、子ども手当や高速道路無料化などマニフェスト関連予算を削減し、震災対策の財源に充てる議論が行われた。国家的危機の対応の中で、政治家も旧弊から脱却するときではないか。</p>
<p>『月刊カレント』2011年4月号掲載<br />
（3月17日記）</p>
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